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僕を救ってくれた“好きなこと”

こんにちは!


大阪 堺で

“コーヒー屋兼パーソナルトレーナー”


として活動しているみっきーです!




先日、

僕の精神病(パニック障害)の乗り越えれたのは

大好きな



“野球”



が大きなキッカケになったとお話しましたが、


今回は僕の人生の中で大きな割合を占める

野球人生のお話をしようと思います!!





小学校3年生の頃

父と兄の影響でソフトボールを始めます。




小学校のクラブ活動に入ったのですが、

4年生からしか本当は入部できないところを

兄がソフトボールに入っているのもあり、

先生の計らいで練習に参加させてもらいました。



4年生になり、本格的に試合などの参加もできてきて、

僕はすぐにメインの試合に6年生の兄と一緒に出ていました。

(不登校時は学校にも練習にも参加できていません)




当時の6年生のメンバーは上手い選手が多く、かなり強かったのですが、

小さな大会では優勝し、そのメンバーにも入れていました😏




ちなみにポジションは、

テレビで見た仁志敏久さんがかっこよすぎて、

セカンドを守っていました。




始めたときからソフトボール(野球)が大好きで、

休み時間、放課後、などなど遊びを含めずっと野球をしていたと思います。





野球をしていたことのある人は1度は夢見たと思いますが、

小学校の卒業文集にも夢はプロ野球選手だと書いています。笑






5年生、6年生になりチームの主力になり、

小さな大会では全て優勝していました!





天狗にはなっていませんが

かなりお調子者だったと思います。笑






そうして中学生になり、

夢はプロ野球選手なので野球部に入ることに!





僕の中学校の野球部は当時人数が多く、

色んな学校、チームでプレーしてきた選手がいっぱいだったので

すごく刺激を受けたのを覚えています。





まだまだ頭痛や体調不良などの発作が残っていたので、

学校に行けない日々が多々ありました。





中学校も僕がいたときの年代は

いい選手が多かったので、チーム内でも競争がありました。





3学年合わせて40人程いたので、

背番号をもらえない子ももちろんいました。






学校に行けない日はたまにありましたが、

それでも小学校のときに比べるとかなり行けてました。

(毎日練習があり楽しかったから)






中学1年生の秋の大会の背番号発表のときがきました。


それまでの練習試合でもレギュラーではありませんでしたが、

ちょこちょこ試合に出ていたので、


「背番号はもらえるやろな」


と思っていました。





ですが選ばれず。。。。





「なんで・・?????」




とまじで思っていました。笑




その後春の大会。

1年生として出場する最後の大会です。

僕は秋の大会前よりも練習試合で活躍していたのを覚えています。





友達と、

「お前は背番号○番で、おれが○番やわ」

という会話をしていたのも覚えています。

(幸せなやつです)




ですが、また背番号をもらえず。。。




ほんまになんで??????




と思っていましたが、

先生が常日頃から


「普段の生活態度からおれらは見てる。休んでるやつもおんなじやぞ。」


と言っていたのを思い出し、


休んでるからやん!


と思いました。笑




そこからスイッチが入り、

学校を休むことがなくなりました。



正確に言うと、

体調不良を起こすことがかなりなくなりました。






親に迎えに来てもらうことがあるくらいよく体調を崩していた僕ですが、


“好きなことのためをするために”


という目的のおかげでかなり復活することができました。







中学の友達に言うと信じてもらえないかもしれないくらいに。笑





とにかくこのことがキッカケで毎日学校に行くようになった僕は

しっかりと次の大会からは背番号をもらうことができました!!!





3年生の夏の大会では、

学校で初めて大阪府の決勝トーナメントまで進むことができました👍

ちなみに今でもこの記録は破られていません。笑






そうして中学時のことがキッカケで

高校にはほぼ皆勤賞くらいの勢いで学校に行けました!

頭痛などの発作はたまに起こりますが、

日常生活になんの不安もこのときはありませんでした!




高校に入り、

硬式野球部に入部しようと思っていましたが、

アメリカンフットボール部に入部しました。笑




硬式野球部に入るまでにかなり日数があり、

友達と色々な部活を体験しに遊びに行っていました。

そのときにアメフトがすごく楽しく、、、、



ノリと勢いでそのまま入部しました。笑


アメフト部に入り、監督、コーチからも期待して頂きながらそれなりに楽しくプレーしていました。



ですがこんなに好きだった野球から完全に離れ、

忘れれるはずもなく、、、



アメフトはアメフトで楽しいですが、

大好きな野球を諦めきれるはずもなく、、、




高校1年の夏に

アメフト部を辞めることになりました。




かなりアメフト部の監督にも引き止められ、怒られましたが、

野球したいという思いが止められず、、、



かなり迷惑をかけました。笑






そして僕の学校は

硬式野球部と軟式野球部があり、


硬式野球部は3年生が引退し、新チームとして始動していたこと、

友達から軟式野球部に誘われたこともあり、


軟式野球部に入ることに。






ですが、
それがまた僕にとって良い巡り合わせに!!



同学年にピッチャーの頭数がいなかったので、

肩が強かった僕は

人生初めて


ピッチャー⚾


をやることに。





元々身体能力が高かったので、

すぐに対応できました。笑




入部してからすぐに試合にも出して頂き、

1学年上にすごいピッチャーが2人いたので

僕は抑え投手のようなポジションで試合に出して頂いたことを覚えています。





僕が1年生のときの秋の大会、春の大会はすぐに負けてしまいましたが、

夏の大会に結果を残すことができました。





順調に勝ち上がり、

大阪大会決勝戦まで上り詰めました。





僕は全試合で中継ぎで、数イニングしか投げていなかったので、

決勝戦の先発投手を任せてもらえることに。

(他の投手の疲労を考慮して)




6回途中1失点で降板しましたが、

大会前に肩を壊していたのでめちゃくちゃしんどかったのを覚えています。笑





チームは最終回に逆転し、

大阪大会優勝。


全国大会出場

の権利を得ました。




全国大会でも勝ち進み、


国体(国民体育大会)


にも出場することができました!!!





僕が3年生になったときの大会は2回戦で負けましたが。笑




高校3年間は本当に青春を楽しめたと思っています!!






高校を卒業したあとは

本気で野球をしたい!


と思い、独立リーグに進むことに。



母はもちろん、友達のお母さんからも反対されたのを覚えています。



気にかけてくれてのことだと思っていますが、

当時は



なんでこんなおれ言われなあかんの????


とおもっていました。笑




そんなこんなで反対を押し切り、

独立リーグに進むことに。





独立リーグはカテゴリー的にはプロ扱いになります。

リーグのトライアウトを受け、
欲しい選手を球団が1人ずつ指名をしていく形になります。



評価してくださった球団から1位指名も頂きました。





指名してくださった球団は大阪の球団ではなかったので、

実家を出て野球をすることに。




2月から入団予定で、

野球漬けの毎日にすごくワクワクしていました。





そして高校の卒業式が終わった後、

2月から入寮。





ですが、

入寮当日。



ほぼ完治したと思っていた


精神病(パニック障害)



の発作を発症し、練習を1日終えて帰ることになりました。



辛すぎて、必死に帰ったのを覚えています。。。




そこから1年間、気が病み、今思うと若干鬱のような感じにもなっていたと思います。。




できる範囲で、

野球のトレーニングは続けていました。



チームに帰りたくても帰れない日々が続きましたが、

大阪の球団に拾ってもらうことになりました。(本当に感謝しています)




実はこのとき母の病気が見つかり、

病院の送迎、看病等もあったため

実家から通うことは今思うと運命的だったのかなと思います。




高校を卒業してから1年後。

やっと野球をすることができました。




監督やコーチは

野球好きならみんな知っているような有名な元プロ野球選手。




チームからドラフトで指名された選手を見たり、

すごく刺激を受けたり、

これくらいのレベルでで見てもらえるんやな

と思ったり。。。




独立リーグに入り、紆余曲折を経験し、

野球選手として順調とは言えなかったかもしれませんが、

ケガを乗り越えたり、色々な経験ができました。




リーグ決勝戦時に登板させてもらえたり、

チーム最多登板させてもらったり、

独立リーグ最終年には投手キャプテンもさせてもらえました。




独立リーグで実質3年間プレーした後に、



もう時間がない。

当時22歳の僕が、

プロになるためにどうしたらいいんやろ??

(ドラフト指名の平均年齢は20歳前後)

と考えた末、


1年野球留年しよう!


と思い、どこのチームにも所属せず、

東京の、とある野球のトレーニング施設に通うことにしました。



年齢的に若いとは言えない年齢だと思っていました。

なので、

圧倒的な実力をつけなあかん!

と思いました。



練習設備などは

独立リーグは環境が整っているとは言えません。



通う予定の施設は

足りないところを補い、

得意な部分を伸ばす!


ということを数値で計ることができるので、

環境を今までとがらりと変えることに。



どこかのチームに入ってその施設に通う選択肢もありましたが、

時間の関係上行けなくなるかもしれない

(チームに入ると試合や練習があるため)

と思い、集中するためにチームには入らずに練習をしていました。



施設に1ヶ月に1週間ほど通い、

その他は1人で練習をする日々。。



自分が想像していたよりも過酷で、孤独感がありましたが、

この1年で僕は人間的にかなり成長したと思っています。




考えるということをはじめてしたかもしれないくらい、

自問自答の日々でした!!



結果


“野球留年”


の1年を過ごし、

結果プロ野球選手にはなれませんでしたが、

かなり濃密な1年を過ごせました。




ずっと野球のことを考え、

どうしたら上手くなれるか?

人生で1番野球に向き合えた時間でした。



チームに入りながら野球を続けていれば楽しかったかもしれませんが、

野球をやめたときに悔いが残っていたかもしれません。

それくらい本気で向き合えた1年だと今でも思います。



決断は間違ってなかったと思います!





精神病を克服させてくれた大好きな野球でプロになれば


今苦しんでいる子どもたちに

希望を与えられるんじゃないのかな。


と思いました。




それは叶いませんでしたが、

今は母校の中学生に野球の楽しさを伝えています。





僕を救ってくれた野球になにかしらで携わりながら

コーヒーとパーソナルトレーナーとして

なにか繋げられればいいなと

思っています!






人生の中でかなりの影響を与えてくれた野球のことなので

かなり長くなってしまいました。笑




熱い思いを持つ、


僕のコーヒー屋は



Pluto coffee

大阪府堺市西区上野芝町5−6−27

定休日 木曜、金曜

10時−18時





でオープンしてます!



ぜひよかったら来てみてください👍



ではまた👋



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