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誰かのために一生懸命になることを楽しむ

昨日急だったけど
人に会いたくて
行動してみた。

日帰りTOKYO。
世の中は便利になったもんだ。

そして
「『私が先生をする』とはどういうことだろう?」

そんなことを最近は考えている。


久しぶりに会った。
何年ぶりだろうか。

あの
「命を削って働く」
ということをした2年間は

それでも
こうして今でも
遠い距離を経て、
人を引き合わせてくれるだけの
「つながり」
を残してくれている。

最近気になっていたのは
「仕事に対する姿勢」
みたいなもの。

実は、最近帰国してきた人と話していたときに
気になっている雰囲気があった。
それはまぁいつの世も移りゆくものではあるのだが
どうしたもんだろうか

「こんなことやってられませんわー」
みたいな
とってもドライな雰囲気を
感じたから。

確かに私も
終電まで働いた日々で
しんどかったよなぁ
って思いながらも
「自分で選択した」
ということや
「素晴らしい仲間(※一部除外有(笑))」
がいること、
そういう方々の中で働けている嬉しさ
みたいなものは
私の中には確実にあった。

勤務時間外に
「みつこ先生、ちょっと…」
って声をかけられたら最後
その日のお仕事は21:00を回る。

でも
ウィーンのすごいところは
夏場の21:00は全然明るいのだ。

気持ちはまだ17:30みたいなね。

そんなこんなで
完全に働きすぎて来たのだが、

それでも
仲間の中に共通してある想いは
「なるだけ最高のものを届けたい」
ということだったんじゃなかろうか

というふうに思った。

職員数7名。

本当に人数としてはギリギリアウトくらいのライン。

だけど、

学校として経営するために
お金についてシビアに考えつつも

できうることは可能な限り届けたい

としてきたなぁって。

ちょっとここは
昭和的な感覚が根底にはあったとおもうけれど

その粘り強さみたいなもの
「自ら手を上げて来た」ということ
やる以上はやっぱり本気

みたいなものに
すごく支えられていたんだろうなっておもう。

ある意味そのピークであり、
ピークアウトの変革期の序章くらいに
いたんじゃなかろうか。

もう無理、
我々にそれを求めるな。

ってなってきたんだろうな。

余計なことはやらない
それに注力してどうなる?大変なだけじゃないか

そんな感じで
まぁいろんなものが削減されていくのは大いに歓迎だ。

でもその結果
はやくこの仕事から身を引きたい(帰国したい)
こんなところ来るんじゃなかった

みたいな雰囲気になっていたとしたら
それはなんだかちょっと悲しいかなって。

(とはいえ、他人の課題に首を突っ込むつもりはない)

ホールの椅子を直そうっか!って
みんなで直したり、
カレーづくり、どんなのにしよっかって
闇カレー研究したり、

大変だったけど
仕事や学校に対する
「愛」みたいなものが
そこにはあったよなぁって

8年経って、
そういうことが見えてきた。

今、愛がないって思っているわけではない
私が自分の目で確かめたわけではないけれど

最近帰ってきた人たちが
発している言葉に
なんか「乾いた感じ」がしたから。

(まぁある意味燃え尽きて返ってきたのはわかる)

でも、
考えてみれば
私も帰国したあとの数年は

もう二度と行くもんか。
まじでしんどかった。
楽しそうで羨ましいっていわれても
実際はまったく苦行だった。
行きたいと思う人はどうぞ。

って思いでいっぱいだった。

人はうまいように作られていて
嫌なことは忘れていく。

だから、いい思い出だけが
残っていくのかも知れないけれど

話した彼らがドライに感じたのは
もしかしたら私だって同じように言葉を紡いでいたのかも知れない

ただそうなのかもしれない。


こんなことを
朝風呂に入りながら考えていて

最後に自分の中に残ったキーワードは

「誰かのために一生懸命になることを楽しむ」

ということだった。

10年前のそこに
愛があったかどうかは
今になって新たに輪郭がわかってきたけど
きっとあったとおもう。

今のそこに愛があるかどうかは
わからないけど
また形を変えた、
私にはとらえどころのない「愛」は
あるんだとおもう。

ただ、
そこに確かにあったことは
どんなに大変でも、
どんなに苦行であったとしても

「誰かのために一生懸命になることを楽しむ」

ってことはあったよなぁって。
だから、
こうしてみんなと会いたいと思って、
集まるんだろうな。

昨日の
美味しいワインとソーセージの前で
紡がれる言葉に
共通しているものは
まさにこれだったと思う。

そうおもうと、
この仲間とのつながりが
またちがった意味で嬉しく感じられた。

あぁ、この人たちと一緒で幸せだったなぁ
って。

誰かのために一生懸命になることを楽しんで、
オフはめちゃめちゃ遊んで
日本じゃなかなかやらない、
すごい振れ幅だとおもうんだけど。

そうすることが
今でも噛みごたえのある時間に育っていて、
合間合間に素晴らしい瞬間や体験があって
まだまだそこから学べるエッセンスに溢れていて

総じて
素晴らしい体験だったなっておもう。

…苦行だったとおもうけどね(笑)


私が先生をするということはどういうことだろう?
の今日のアンサーは
「誰かのために一生懸命になること」
をさせていただくことであり

「出会った子どもたちのその後を楽しみに思えること」
であり
「一生懸命になれた分、素敵な仲間とのつながりがあったり
 いつまでも噛みごたえのある経験になる」
ということと思う。


こんな気づきをもたらしてくださることに
声をかけてくれた人
子供と一緒にいてくれた人
その場に集まってくれた人。

携わってくださった皆さんに
感謝。

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