もう一人のワタシ

某ホテルの客室掃除の仕事をしている。
213号室の壁紙は白樺の林をイメージしているのか、派手すぎないシックな色合いとノスタルジックな風景は田舎暮らしが長い私にはホッと癒される好みの壁紙だ。

その日は足元から50センチ先に落としたダスターを拾うのもしんどい最悪の体調だった。
ベッドメイキングしたばかりのふかふかのベッドに今にも倒れ込んでしまうくらいに。
『午後からの仕事は引き受けた!引き継ぎだけして帰って休みなよ!』耳元でささやいたのはもう一人のワタシだった。バトンタッチする前に引き継ぎしようと思っても声が出ない。スタッフと話した内容が午後もスムーズに流れるようにしなきゃ!いわゆる*@≒#&要するに*@≒#&…そうそう!とにかく報連相!遠のく意識の中でも焦っている。「あのね・・・」かすれる声で私は伝えようとする。(いや、声にはなってなかったと思う)
そして…そのまま白樺の林の中に顔からうっぷした。
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ここは30年前の夏の故郷だ。あちらこちらで白樺の木を見かける。標高が高いこの土地は、真夏でも朝晩はヒンヤリと肌寒い。誰もが知る高原の避暑地とまではいかないが、人ごみが苦手な私にとっては何とも心地よい、出来れば秘密にしておきたい穴場もあるような、いわば神秘的な異空間だ。早朝4時、母を起こさぬように抜き足で台所へ向かい、何故か梨をむいた。タッパーに詰め込み、玄関で静かに靴を履く。靴ひもを結ぶのももどかしい。そんな時代だった…。四ッ門で昌也が待っていてくれた。さすがに眠そうだ。手をつないで近くの河原まで散歩する。足だけ水につかりながらシャリシャリと梨を食べ裏道を通って帰ることにした。途中、真っ白い子犬と出逢った。綿あめのようにフワフワで、そよ風にすら飛ばされてしまうくらい小さかった。胸に抱いたら最後、離れられなくなり家まで連れて帰る事となる。飼ってもいい許可がおりたかどうかは言わずもがなだ。
5倍粥よりちょっと硬めくらいのお粥を作り、少しずつ子犬の口に運んであげた。粘り気の出た白米は子犬の上顎にくっ付いて飲み込むのが難しいようだ。無知な私はあたふたするばかり。恐る恐る指を入れてご飯粒をかき出してあげた。心の底から湧き上がる母性のような感覚をこの時初めて味わったかもしれない。
その後、あの子犬とはどうやってバイバイしたのだろう・・・私はどれくらいの時間泣いていたのだろうか・・・昌也はあの日仕事だったんだっけ・・・だとしたら、早朝に散歩しながら水のある景色を観たいという唐突な私のワガママに笑って付き合ってくれたんだ・・・
SNSのない時代…約束のツールも不確かな時代…あの時の不器用な昌也の優しさが今なお鮮明に思い出される…。
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悲しかった思い出の方が記憶に残るというけれど、私の指にダイレクトに伝わった子犬の唾液の温もりと柔らかい抱き心地、そして潤んだ黒飴のような愛くるしい瞳があまりにも強烈すぎて、その後の記憶は自分でもビックリするくらい皆無だ。

全ての記憶も自分が信じる以上に曖昧なのかもしれない…
過去に真実はないのかもしれない…
そもそも過去も未来もなく、ただただ今この一瞬がずっと続いているだけなのかもしれない…
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上半身がクラクラと揺れているみたいだ。
揺れている…確かに。
ぼんやりと目を覚ました時、私は病院の処置室で点滴を受けていた。もう一人のワタシは無事に午後の仕事を終えただろうか…。
違った!私に代わって午後から仕事をこなしてくれたのはスケットとして呼ばれたEさんだったらしい。午後の西日にジリジリと背中を蒸されながらの露天風呂掃除…その疲労感は容易に想像出来る。しかもずっと手付かずだった箇所の汚れも綺麗サッパリ磨いてくれたらしい。
次に会った時に丁寧にしっかりお礼を言わなければ…。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・
「自分と同じ人間がもう一人いたら…
      そんな人間になること」
中学卒業の時に、驚くほど寡黙な理科の先生が贈る言葉として文集に書き記してくれた言葉だ。
数十年の時を経て、今その言葉の意味を噛みしめている。
もっと早く気付けよ!と自分で自分に突っ込みを入れながら…。
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     ♡あとがき♡
忙しない毎日だけど…
ふと思い浮かぶ故郷の風景はありますか?
水・風・土・光に心癒される瞬間はありますか?
動物や植物と触れ合うひとときがありますか?

大切な人を想って空を見上げますか?

一日の中で、ほんの一瞬でも心安らぐ時間を過ごせますように…

小説を書いてみたいという、ずっと前からの夢のまた夢…
笑い飛ばされちゃうかなと冗談半分で口にした私の夢の中の一つ…
真剣に目を輝かせて聞いてくれたK君😊
ちゃんと形にしてくれたRさん😊
嬉しくて泣くのって幸せな事だよね✨
     ☘ありがとう☘
今この瞬間、私があなたの「もう一人のワタシ」になれる事を祈って…♡



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