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25. ムリーノメルかスホメルか(チェコ語)

菅寿美(『ボヘミアの森と川 そして魚たちとぼく』訳者)

 

チェコ語は日本人にとって、最も習得しにくい言語だと言われることがある。何をもって一番とするかでその順位は変わってくるだろうが、日本人にとってスラブ諸語(ロシア語やポーランド語、ブルガリア語などなど)学習にとっつきにくさがあるのは確かだろう。

 それでは何が難しいのか、と問われると、多くの人が、複雑怪奇な名詞の格変化だと悲鳴をあげる。チェコ語の名詞は、単数形で7つ、複数形で7つの計14の格に変化する。格変化とは、単語にいわゆる格助詞を伴わせたような意味を付加させることだ。例えば、「kočka(猫)」ならば、以下のように。

25格変化

 ひとつの単語に都合14もの変化形があったら覚えられない、と嘆きたくなるかもしれないが、実は格変化があるからこそ、わかりやすいとも言える。というのも、チェコ語では、微妙なニュアンスを伝えるために、かなり自由に文中の単語の位置を入れ替えることができる。目的語が文頭に、主語が文末にくるのも珍しいことではない。格変化という素晴らしい手掛かりがあるからこそ、たとえ文末に主語が来たって、それとわかるのである。チェコ語にも、ほぼ格変化をしない、とてもひかえめな名詞群もあるのだが、複雑な構文の中にそのタイプの単語がちらほらしていると、この横着ものめ、とむしろ泣きたくなる。

 名詞に負けじと、代名詞や形容詞も同様に格変化する。数詞ですら格変化する。けれども、それ以上に手ごわいのが、動詞の使い方なのではないだろうか。

 単数形と複数形とを合わせ合計14とおりの格変化を遂げる名詞・形容詞・代名詞一派にの華やかさに比べ、動詞は一見、地味に見える(個人の見解です)。実際に地味かどうかは別として、入門書での扱いはあっさりしている。その活用は、現在形ならば、単数と複数でそれぞれ1人称・2人称・3人称の合計6とおりしかない。ドイツ語やフランス語、スペイン語など、日本で学ばれるメジャーな外国語と変わらないので、ここでおののく人は少ないのではなかろうか。

 しかし、学習者を翻弄してはしゃいでいるような名詞と異なり、動詞には底なし沼のような狷介さが潜んでいる(くりかえしますが個人の見解です)。基本的な活用を覚えたら何とかなろうと軽く考えていると、足元をすくわれる。過去形は比較的規則的だ。未来形は不規則なものもあるが、まあまだ何とかなる。命令形は頑張れば何とか頭に詰め込める。条件法のあたりで、そろそろ怪しくなってくる。条件法とは、英語の仮定法に近い用法だが、英語とはまた異なるニュアンスも含み、多用される。このころ、動詞の目的語は動詞により要求する格が決まっており、日本語訳を頼りに考えると誤るものがいくつもあるということに気づき、不安がよぎる。そして、完了体と不完了体が出てくると、動詞は楽勝だろうと思っていた自分を呪いたくなる。

 チェコ語の動詞には、完了体と不完了体という対をなす体があり、多くの動詞はその二つがペアとなっている。おおざっぱにまとめるならば、不完了体は継続している動作を表すときに使い(例えばčíst:読んでいる)完了体は動作が終了してしまうときに使う(例えばdočíst:読み終える)。この完了体・不完了体の細やかな使い分けが曲者だ。例えるなら、日本語の「は」と「が」の使い分けをマスターするようなものだろうか?時間をかけて自分の頭の中に一定数以上の例文の倉庫を構築していかない限り、適切な使い分けは不可能ではないかと思われる。さらに、動詞には接頭辞をつけることで、基本的な意味に付加的な色合いをつけることができる。動詞をもとに作られる派生語もたくさんある(動名詞、副動詞、形動詞など)。動詞がチェコ語の根幹をなし、動詞を制するものがチェコ語を制するのだ、とようやく理解したころには名詞の格変化ですら、かわいいものに思えるようになっているだろう(あくまでも、個人の見解です)。

 さて、チェコ語全般に関する前置きが長くなり、紹介というよりおどしに近くなってしまったかもしれない。チェコ語という言葉はなんだか難しそうだけれど、挑戦しがいがありそうだと思っていただければこっちのもの、いや願ったり叶ったりである。

ぼくが死にかけていたときにしばしば思いふけっていた、あの水車だ。そこにはムリーノメルなんて馬鹿げた名前は書かれておらず、スホメルという名前だった。つまり、水が流れていなくたって、粉を挽くのだろう。
(「ぼくらが魚釣りで死んだお話」より、p.156)

 「ムリーノメル」という名称はMlýnomelと綴られ、mlýn-o-melと分割できる。このmlýnは「水車小屋」つまり「粉挽き小屋」という意味の名詞である。後半のmelだが、これはmlít(粉を挽く)という動詞の2人称単数に対する命令形と同形であるので、「粉を挽け」という意味を思い起こさせる。「粉挽き小屋」が「粉を挽く」のは至極当然なので、「ムリーノメル」という言葉は、改めて聞くと、チェコ人にはくどくてばかばかしく思えるのだろう。日本語で言うなら、「水の放水」とか「牛の牛乳」のような感じだろうか。

 いっぽう、「スホメル」という名称はSuchomelと綴られ、sucho-melと分割できる。suchoとは「乾燥して、水が足りない状態で」という副詞であり、melは同上の意味である。したがって、「スホメル」は「乾燥した状態で粉を挽く」つまり、動力源となる水が十分でなくとも粉を挽くという意味が連想され、ひねりの利いた名前だなと感心されるのである。

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