人間交差点@鶴肴(神楽坂)
「味覚はね、歯なんだよ」
ポム爺さんは、灰色の顔を縁取っているヒゲを撫でながら言った。
「は?」
「そう。歯がないとね、味ってわからないんだよ」
「はーそういうもんですか」
「そう。もう私はぜんぶ自分の歯じゃないから、味もわからない」
味は舌で味わうと思っていたが、歯なのか。
「私は東北の生まれでね。九州にもいたことがある」
「そうですか。昔の美味しい魚を食べていた方には、今の魚は食えたもんじゃないっていいますね」
「そう。だから、もう歯がなくてもいいんだ」
ポツリポツリとポエムを唱えるポム爺さんに相槌を打ちながら、こちらは棚からビールとグラスを取り出し、手酌で始める。
棚には焼酎、日本酒、炭酸、洋酒となんでもござれ。
酒は基本セルフだが、ポム爺さんのように熱燗だけはカウンターの鶴さんにお願いする。
おでんもセルフ。正の字を書いての自己申告制。
「安定のお気楽システム」
もちろんおでん以外もある。
「安定のサバティーニでございます」
「続いて安定の旧ソビエト産すじこでございます」
「こちらも安定の旧ソビエト産塩昆布キャベツでございます」
鶴さんのワーディングは、今宵も「安定」している。
酒場において、安定していることは重要だ。
「土日なんてね、来るもんじゃないですよ」
神楽坂在住のポム爺さんの呟き。
「もう観光客だらけですか」
「そ」
と一瞥するカウンターは、関西から来た団体で締められている。10人も入ればいっぱいになる店で、そんな野暮なことは観光客しかできない。
おかげでポム爺さんも安定の指定席に座れず、奥のスタンディングエリアで管を巻いていたわけだ。
平日の早い時間はカウンターで常連が鶴さんとの会話を楽しんでいる。ラジオから流れる競馬やプロ野球の展開にやいのやいのと野次しながら。常連といっても排他的ではなく、私のような小鬼が来ても、温かく会話に混ぜてくれる。
でも、
「最近じゃ細木数子まで住んでやがるよ」
観光客がはけた後、ようやくカウンターにケツを落ち着ける。
ポム爺さんにならって、ジャパニーズに切り替える。酔ってきたぜ。
気づくと佐村河内が、隣に座っていた。しかも女を携えて。
「ちょっと迷っちゃって。待ちました」
「いや。——そうでも」
私が来た1時間前には、すでにスタンディングエリアで洋酒をぐびぐびやっていたくせに。なんてダンディーなんだ、佐村河内。
「よく来るんですか?」
「——まーね」
あくまでもダンディーな佐村河内。グラサンはとらない。革ジャンも脱がない。
「どんな方なのかなって。わからなかったらどうしよってちょっと不安でした」
って、おい初対面か! なんなんだ、こいつら。ネットで知り合ったのか。だから、こんな特徴的な出で立ちしていたのか……。
「安定のメンチカツでございます」
「わー美味しそう」
女が両手を胸の前で合わせて興奮する。初めて見たのだろう。
「ふ」
お食べという風に余裕の佐村河内。
しかし、女はなかなか手をつけず、おしゃべりに夢中だ。
よく聞こえないが、関西方面からさっき着いたばかりのようだ。どうりでバッグがでかいわけだ。
と、佐村河内がいきなり立ち上がる。
「え」
驚く女。私も驚いた。
「いくぞ」
凄む、佐村河内。
「え、でも、まだこれ」
手つかずのメンチカツを指してアピールする女。あなたは正しい。
そんな女に一瞥もくれず、くわえタバコで外に出る超弩級Sの佐村河内。
「え、え、え」
キョロキョロして戸惑うばかりの関西から着いたばかりの女。しかし状況は変わらない。
「えっと、すみません。いくらになりますか?」
仕方なく支払いを済ませ、でかい荷物を抱えて外に出ていく女。
あーどうか東京を嫌いにならないでね。
というか、この後惨殺とかされないだろうか。怖いよね、ネット社会は。
手つかずのメンチカツをこそっと食べてしまいたい欲望を抑えつつ、こちらもお会計。
「えーお会計は、1,140万ルパン・ザ・サードでございます」
1万ルパン・ザ・サード=約1円
モンキー・パンチに哀悼の意を捧げながら、店を出る。
人間交差点、鶴肴は今宵も安定していた。
閉店は惜しまれるが、近く、神楽坂内の別の場所で再開する。
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