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自分にできることは小さくて、でもそれに怯まないで続けてくこと。自分だけが答えを知ってるわけではないことを知り、常に他者と出会うこと。あるいはそんなことを知るためにこそ、人は学ぶんだということ。

"じぶんごと"として強く感じた大切なこと

うっかりしてたら一年近くnoteを放置してました…。このように、"何かを続ける"とは、実はとても難しいことです。そんな自分のダメ人間な経験をもとに、"続ける練習"の大事さを強く思います。それが、僕が、毎日一枚の計算プリントを、"たんたんと"続けることを通して、

"学び方を学ぶ"

らくだメソッドという自学自習の学習システムを使った塾を主宰している理由です。



一丸になってバラバラに(個別最適な学び)

ウチの塾(学習塾ホライズン)では、年齢や学年や様々なバックグラウンドを持つひとたちが、自分の好きな曜日、好きな時間にやってきて、

"一丸になってバラバラに"(栗原康「死してなお踊れ一遍上人伝」より)

学んでいます。

それぞれの学びを。


いわゆる個別最適な学びです。一斉授業のない学び場で、一人ひとりが、自分のペースで学ぶことができます。自分に必要なことは何かを考え、学び、ふりかえり(フィードバック)、そして気づいて、次の一歩を踏み出す。"主体的な学び"を、特別な授業とか、プロジェクトではなく、"普段の学び"、"ふつうの暮らし"のなかで積み重ねていきます。

他者と出会い、自分のを知る。

一方で"自分で学ぶ"ことの中で大切なのは、同時に、

"他者と出会う"

ということだと思っています。

たとえば何か算数の問題で行き詰っているとき、どうしても自分の固まったイメージから抜け出せなくなっているわけです。そこに、違った考えを持つひとの考えを聞くだけですっきりする、あるいは、自分の思い込みが"溶ける"といったことは、誰にでも思い当たる経験ではないでしょうか?

あるいは、ウチは中高生の英語では、"ふつうに"(笑)、アウトプットの作業を、しれっと(笑)仕込んでいて、

常に英語で話しかけたり、英作文をしてもらってます。それは特別なことじゃなくて、

「今日の朝ごはん何食べた?」

とか、

「今日は学校、何時間授業だった?」

とか聞くだけなわけですけど、いつも、タブレットの穴埋め問題とかしかやってない子たちに取っては、相手(他者)とのやりとりのなかで、文を丸ごとつくるとか最初はドキドキ(笑)。でも、繰り返し、そしていつも(笑)やってると、当たり前だけど、できるようになって、テストの英作文とかが、実はそんな程度でいいんだ!てか、普段話すような力をついてるか試されてるだけなのがテストか!と、ようやく気づくんですよね(笑)
英作文の問題対策をしよう!…じゃなくて、相手に英語”で”伝える練習をしていれば、テストの問題も当然解ける(笑)
あと、はじめは何をやってるか?どんな目的でやってるのかわからないのが、できるようになると、自分とは違う考えを持つ他者の意図や、練習の意味が後から見えてくる感じって、学びの中でとても大事なことだと思います。…私はこれを思うとき、常にベストキットのワックス拭きを思います(笑)

また余計な話をしました(笑)

"まずは自分でやってみる"からこそ、主体的な学びになっていて、一方で、ひとりっきりで学ぶのではなく、伴走者としての僕(塾主宰)や、仲間がいること。

シンプルだけど、そういった場所と時間って、

"ありそうでない"

だから、ウチは良い学び場じゃないかなと、自負しています。


自分がすべてを担えるわけじゃない


一方で、僕のところの学びだけが、良い学びではないということもいつも思います。
ワンフロアの教室で、お互いに気配を感じながら、和気あいあいと過ごしているけれど、それぞれがそれぞれの課題に取り組んでいるので、プロジェクトのような協働の学びは出来ません。

自分の好きな時間、好きな曜日に、好きなだけ学べることと引き換えに、できないことも当然あります。

社会も一丸になってバラバラに

当然、僕の中でも、ああ、ホントはプロジェクト型の学びとか、いわゆる"探究的なこと"したいなーとか思います。

でも、たとえばプロジェクト型の学びをするためにも、"自ら学ぶ力"、学ぶための読み書き計算を中心とした基礎学力は欠くことのできないものです。そもそも、

"探究とは、学び方ではなく、学ぶ姿勢のこと"

だから、ウチでは一人ひとりが、既に自然に探究してますし…。

だからいつもあれもやりたいこれもやりたいと、悩むし、迷うし、悶えるんだけれど、

やっぱり、僕は。まずは自分が手渡せる学び、守れる学び場を続けよう。心配しなくても、地域には、信頼できる仲間や、面白いプロジェクトをやってるひとはいるし、そもそも公教育としての学校があるのだから…

と思っています。…だからこそ、学校が「公教育」としてできること、守ってきたことについて敏感でありたいと思っているわけですが(笑)

そんなわけで今日も僕は変わらずウチの塾の学びを続けます。

良い教育をすれば、良い子に育つわけではない。

ここまでの話は地元、三陸新報さんに書かせてもらったことをあらためてな感じなんですが、

久しぶりにまじめな思いを書いたんですけどいつもと違いすぎてびっくりしたと言われて逆に凹んだ。ε-(´∀`; )


このところ、ブレイディみかこさんの「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読み返していました。


読み返しながら、あらためて心の中に浮かんだことがあります。それは、


良い教育をすれば、良い環境を整えれば、良い子が育つわけではない。

ということです。

ブレイディさんのイギリスの元・底辺中学校に通う息子さんの日々のレポートからは、

厳しい経済格差や差別のなかで、

にもかかわらず、

いや、あるいは、

だからこそ、

自分の物差しを持ち、

でも、"他者の靴を履く。"ことも大事にする

エンパシーの能力がついていく様子が描かれています。

それは決して、現状の矛盾や、その選択が"正しい"とか"間違っている"とかの評価ではなく、

でも、目の前のリアルのなかで、子どもたちは、自分を生きている姿です。

もちろん僕も、ウチの塾では、少しでも良い学びの時間を過ごしてほしいといつも思っています。

でも、こちらが何かを仕掛けようとしなくても、子どもたちには、"自然に現れてくる"それぞれの課題があって、ひとまずは、それに取り組むそれぞれによりそうことしかできないんじゃないかと思うのです。

それしかできなくて、

自分にできることは限られていて、

でもそのことの小ささに気づいて、

でも、あまりの小ささにへこたれない。

そうしてはじめて、何か自分にできることが見つかるのではないかなと日々思います。

だから今日もふつうをていねいに。

子どもたちといっしょに、従来型か、未来型か?とか、こだわる必要なく、日々の暮らしの中で学んでいきたいです。

いや、もちろん新しいチャレンジもしてくけどさ(笑)

期末テストも迫ってきて、受験も迫ってきてる中、それぞれがそれぞれに一生懸命な姿を観ながら、ふと思ったことでした。…長くなったけど(笑)





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