川瀬 碧 Midori Kawase

小説や短歌を書いています

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【短編小説】灯台へ(冒頭試読)

 十二月の凍てつくような夜気のなかで、その火は小さく揺れていた。  頬の輪郭が柔らかに照らし出され、火を映す瞳はわたしを見ていなかった。尚美さんはそれを煙草に点けると、すぐに口元から離しながら煙を吐き出した。 「いる?」  わたしは首を振った。かつて尚美さんにもらって吸い始めた煙草を、わたしは大学卒業とともに止めていた。それなのに、この感情は変わらないままだった。  寂れた海辺にはほとんど灯りがなく、西の空に浮かぶ月も流れる雲に覆われがちだった。どこまでも広がる暗い海はときお

    • 【掌編小説】シルバー

       目の前の手すりに載せられた白い指先がかすかに宙でピアノを弾くような動きをして、やっとそれが沙羅だと気がついた。その左の薬指には、わたしの結婚指輪とそっくりのシルバーリングが光っていた。そんな指遊びの癖も、ボブカットの髪から覗く柔らかな耳たぶも、ちょっと退屈したように首をかしげる仕草も、ずっと忘れていたはずの彼女の輪郭がどんどん像を結んでいくのが怖くてわたしはそこから動けなかった。そうして彼女はエスカレーターの数段上にじっと立ったまましばらくわたしの心臓を凍らせておいて、ふい

      • 【掌編小説】躑躅色の窒息

         婚姻届は山羊が食べてしまったよと告げると、そうですかとつつじさんはいつものようにピンクのほっぺをくしゃっとして笑った。それならそれで構わないのですとでもいうような慈愛に満ちた彼の様子にわたしは少し心を痛めながら、机の上のボールペンと印鑑と朱肉を片付けた。わたしの空想上に存在する山羊は印鑑を押した赤い部分が特に美味しかったらしく丁寧に舌の上で転がすようにして味わっていた。むしゃむしゃとリズミカルに噛みながら、ときおり敏感そうに耳を動かして。結婚したら苗字が変わるからと下の名前

        • 【掌編小説】五月の弔歌

           ふいに一片の氷にふれてしまったような高い単音が何度も静かに響き、さらにだんだんと研ぎ澄まされるように透明度を増していく。その音が完成したら、次の音に進んでまた執拗に繰り返し鳴らしていく。そのピアノの音色にはメロディがあるわけでもないが、そうかといって不協和音を奏でるわけでもない。どちらかというと一本の樹を彫り刻むの工程のようにそれは聞こえた。  そんな馴染み深い調律の響きに誘われて、早苗はなんとなく久しぶりに放課後の音楽室の扉を開けた。グランドピアノの艷やかな黒の向こうには

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        【短編小説】灯台へ(冒頭試読)

          【短歌30首連作】渡河

          冬の陽を浴びる樹の影くっきりと遥かな幻肢痛うずきだす 積雪の鎖骨のような窪みにも指を這わせてみたが崩れて かさぶたを爪で剥がすとブランコの鎖の匂いするのどうして いつまでも旅の途中のように住む きみの知らない街はにぎやか コップからこぼれてしまう 呼ぶ声の掠れも指の温度も青も * ぼくが日なたをゆけば日かげを歩くきみ 向こう岸からずっと見ていた 七月の空 生協のビニールを破れば遠い耳鳴りがする くちびるに真紅をさせば吐息さえ陽炎のよううらうら燃えて キャン

          【短歌30首連作】渡河

          【短歌30首連作】紙飛行機を放って

          2022年7月1日から1週間配信していたネプリ「紙飛行機を放って」をここに再録します。 人生初の短歌30首連作ですが、短歌研究新人賞の佳作になったものです。 人々の爪や睫毛がそれぞれに光り行き交う上京の春 女子寮の開けっ放しの玄関に門番代わりの犬の置物 真夜中の電子レンジに閉じこもり光って回るひとりで回る 故郷なんか燃やしてやると豪語して虚勢で頼むカシスオレンジ 幾重にも酔芙蓉吐き出すきみを放っておけず片手で打った 帰る場所なんてないふり 川沿いのガードレールにも

          【短歌30首連作】紙飛行機を放って