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ちょいちょい書くかもしれない日記(お菓子)

横浜で会った方に「空也もなか」をいただいた。
私はこしあんのもなかが大好物で、つぶあんはどちらかといえば苦手なのだが、空也もなかレベルになると、もう「こまけぇことはいいんだよ」という感じになる。
文句なしにおいしいので、それがつぶであろうがこしであろうが、大した問題ではなくなるのだ。
というか、御座候やどら焼きもそうだが、つぶあんの力強さ、素朴さがものを言うお菓子が確実に存在する。
滑らかで癖のないこしあんでは、いささか迫力や押しが足りない……というような感じで。
そういうときは、こちらは職人さんが思う「最高」の取り合わせを、ただありがたくいただくのみ。
それより何より、箱を受け取ったとき、つい「父が喜んじゃうな~!」と言いかけて、慌てて言葉を呑み込んだ自分に呆れた。
まったく、意識のアップデートが遅いですよ、私ちゃん。
でも、長年の刷り込みというのは実に強力なものだ。
去年死んだ父は、つぶあんがことのほか好きだったのである。
空也もなかなど見せようものなら、「貰ってもええか」も「ありがとう」もなく、即座にごっそり半分ほど自分用に取り分けて、涼しい顔をしたに違いない。
私が出張から帰ると、父はいつも「今半のすきやき弁当」に加え、「何かおいしいつぶあんのお菓子」を買ってきたに違いないと、確信に満ちた顔で待ち受けていたものだ(あまりにも旨すぎて、みはしのあんみつだけは、こしあんでもよし! となった)。
母は、そんな父に「当たり前のことだと思わないで、ちゃんと感謝を言葉にしなさい!」と毎度怒っていたが、母自身も、おいしいものが大好きな人なので、やはり自分だけに、可愛かったり美しかったりするスイーツがあるだろうと期待していたふしがある。
本当に自分自身にイラッとすることには、東京や横浜に出張して、さあ帰ろうとなったとき、未だに両親のために弁当とスイーツを買い求めようとする癖が抜けない。
ようやく、最近では店に行く前にハッと我に返るようになったが、去年の冬あたりまでは、弁当を三個買ったところで「あ」となったことも一度や二度ではない。
未だに、一人暮らしに馴染みきっていないのだな~と痛感する。
それと同時に、面倒臭いし大変でもあったそのおいしいもの探しが、楽しかったんだな、とも思う。
無論、私自身も美味しいものは大好きなので、あれこれと買って帰りはするが、誰かの喜ぶ顔を想定しない買い物は、楽しさがちょっと目減りしているのである。
つくづく、誰かを喜ばせたい属性の人間なのだなあ……と感じる。
職業、小説家で正解。たぶん。

こんなご時世なのでお気遣いなく、気楽に楽しんでいってください。でも、もしいただけてしまった場合は、猫と私のおやつが増えます。