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ちょいちょい書くかもしれない日記(労働者の手)

今日の母は、私のことがわからない様子だった。
よくあるのだ。他に何か気になることがあると、それで頭がいっぱいになってしまって、他のことに気が回らない。
私が誰であるかなどということは、母の中の重要事項の前ではどうでもよくなる。
まあ、敬語で話し、「お使い立てしてごめんなさいねぇ」などと言って貰えると、こちらも世話が楽なので助かるっちゃ助かるのだが、一抹の寂しさはある。
「あなたからは、穏やかな空気が出ているのね。娘にも見習わせたいわ、忙しすぎる人なのよ」なんて言われて、リアクションに窮したりもした。

母の胸を占めていたのは、「朝がた来たFAXに、未払いの通知があった。すぐに払い込まないといけないが娘に運転免許を勝手に返納されてしまったので(わたくし、断固として無実を主張したいところ)自力で行けない。誰に頼んでも連れていってくれない!」ということだった。
なるほど、几帳面な母にとっては、名誉に関わる非常事態である。
各方面への書類や連絡が滞っていることも大いに気にしていた。
施設に入るまでにもなってなお、本人はせっせと仕事をしているマインドなのだ。
否定せず訂正せずが基本なので、窓の外を見せて、「今日はほら、こんなに凄い雨だから、どこの会社もお休みだし、銀行も早じまいしてしまったんだよ。だから、みんな、無理だよって言ってるの」と諭して納得させた。
整合性がとれれば、意外と素直に引き下がるのである。

トイレで失敗することへの恐怖も依然として強い。
「ほとんど失敗なんてないんですけどねえ」と介護士さんが仰るので、少しホッとしたが、トイレットペーパーを隠しておかねばならない事態は、少々胸が痛い。無限に行き、無限に消費してしまうらしい。

なんだかなあ、どうしたら、もっとゆったりした気持ちになってもらえるかなあと思いつつふと触れた母の手に、ハッとした。
あったかい、綺麗な手だった。
綺麗な手に、なってしまっていた。
爪をきちんと切ってもらい、お風呂にも入れてもらい、ハンドクリームも塗ってもらっている、すべすべの手だ。
ああ、母の心はともかく、身体はとっくに、働く人を卒業しているのだな、と思った。
家にいたときの母の手は、冬の私の手と同じく、荒れてガサガサで、あちこちにアカギレがあった。
今の母は、大切にお世話してもらい、何の不自由もなく暮らしている。
柔らかな手が、その証拠だ。
なのに、心はまだ仕事に追われ、毎日忙しく「心が安まるときがない」などと言っている。
本当に、なんだかなあ、だ。
人生の終わりについて考えることが増えたが、考えたところで本当に本当の最後は、自分の意思や力ではどうにもならんのよなあ、とも思う。
結局、なるようにしかならないのだろう。

父の命日の話をしたら、「ごめんなさい、親しくない人のことはなかなか思い出せないのよ」と言われて笑った。
毎日思い出してめそめそするよりはずっといい。そう思うことにする。

こんなご時世なのでお気遣いなく、気楽に楽しんでいってください。でも、もしいただけてしまった場合は、猫と私のおやつが増えます。