愛が、からっぽ。
こんばんは、みちる。です。
思い立ってnoteを始めてみましたが、早速二日目「…さて何を書きましょうか。」という状態に陥っております。
もともと言葉にすることは得意ではありませんが、ここ1年くらいずっと感じている【愛が、からっぽ】について話してみましょうかね。
【愛が、からっぽ】現象は、他人からの愛を感じた日の夜によく起こります。
自分でいうのもなんですが、私の周りには愛にあふれた素晴らしい人間がたくさんいます。家族は25年間、愛というお水をかかすことなくくれたし、母からは多分身に余るくらいの高級栄養剤とか、たまには暑すぎるくらいの太陽とかたくさんくれました。
今仲良くしてる人達はわたしよりわたしのことを分かっているのではないか、と思うくらい的確な言葉をくれるし、もし間違ったことをしてもちゃんとわたしに向き合ってくれます。
そんな、わたしはとても愛されているなあ、と思う夜、そいつは現れるのです。
「こんなにたくさんの愛をもらったのに、お前からの愛は、からっぽだ」
と言いながら。
あ、いや、実際には現れません。黒い影をしたデビルちゃん的なやつ想像しちゃったんですけど、わたしの脳内で勝手にしゃべっているだけです。でもまあ、ここはストーリーチックに行かせて下さい。
わたしはそのたびに反撃をします。
「そんなことないよ。わたしだってだれかのために動くこともあるし、親孝行しようとお花を送ったこともある。親友が泣いていたら電話もするし、話も聞くよ!」
しかし一生懸命説明するわたしを高見から嘲笑いながら、いつも決まってこう問われるのです。
「それは、本当に愛なのか」
と。
「お前が一生懸命になって説明したことはすべて自分を守るために行ったことだろう。それは愛ではなく自己満足だろう。だからお前の愛の容器はいつまでたっても空っぽなんだ。」
そう言われると、たしかに自分の行動は、相手に嫌われたくないからとか、周りはこうしているからとかが動機であって、本当に相手のためを思ったことがあっただろうか、、、と考えてしまいます。
わたしの愛は、からっぽ。
なんだかよくわからないストーリーをオチもなく書いてしまい、若干の後悔がありますが、まあ、二日目なんでお許しください。
本当に相手のためを思って、
って難しい言葉ですよね。簡単に使えるけれども、中身を伴うのはとても難しい。
愛だと思って行動したことが、本当の愛だったかなんて、わからない。
そのことに気が付いてから行動すること自体が怖くなりました。いや、行動すること自体を避けはじめました。
そうやって、自分は動かず、いつか魔法使いがやってきて、容器いっぱいの水を出してくれることを待ち望んでいました。ふつうに考えたらありえないんですけどね。
でも結局、からっぽの容器を満たすには、水を汲みに行かなければ水位は一向に上がりません。
それに気が付けたのが、昨晩。
なぜかって。わかりません。
明日は何を書こうかな、と考えていたらふと、魔法使いはいないんじゃないか?と疑問に思っただけです。
まあ、これもおとといのわたしからしたら、進歩なのかな。
こんなてきとうなnoteですが、いつか、【愛が、いっぱい】って題名でかける日がくるのかな。あ、これは魔法使いに祈ってないですよ。自分の足で水を汲みに行った未来を想像しただけです。
文章って難しいですね。見直しとかしないので、このまま投稿しますが、ちょっとでも面白いものみたな、って思って下さるかたがいらっしゃったら幸いです。
では、愛が、からっぽ。
おわり。
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