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「死を招ぶ探偵・凜堂棘の事件簿 第零怪 通り悪魔」試し読み

 この世には、本嫌いの探偵もいるのかもしれない。

     ※

 秋の長雨——と言うべきか、ここ数日続いた雨のせいで本の匂いが強まっているのは確かだった。数世紀の歳月を経た洋書の匂いだ。
 紙や革、あるいは接着剤に含まれた揮発性有機化合物が、年月と共に分解される際に発せられるその薫香は、バニラやアーモンドの入り混じったものにも似ている。
 匂いの源は、床から天井まで壁一面を覆った三層構造の書架だった。飴色に光る胡桃材のそれには、レールの上を滑る移動式の梯子が取りつけられている。
 天文学、化学、死生学、美術、建築学、哲学——多岐に渡る学術分野の本たちは、いずれも凝った装丁をほどこされた稀覯本だ。
 中でも異彩を放つのが、19世紀のイギリス文学による一群で、ディケンズの〈荒涼館〉のサイン本や、〈ユリシーズ〉の限定100冊の初版サイン本——といった具合に、文豪と呼ばれる偉人たちのサイン本や献辞本が、そうそうたる顔ぶれを揃えている。
 学究の徒にとって、あるいは狂の字のつく蔵書家にとっても、まさに聖廟と呼ぶべき空間だろう——逆に本嫌いの誰かにとっては、荒れ果てた墓地も同然だが。
 と、すん、と一人の男性が鼻を鳴らした。
 年齢は、20代半ば。オーク材のテーブルに用意された3つの席の1つに腰かけ、細さと長さを見せつけるように堂々と左右の脚を組んでいる。
 日本人離れした髪色とあいまって、その居住まいは、ひどく現実離れしたものに映った。まるで銀幕から抜け出した俳優のように。
 ——凛堂棘だ。
 一瞬、顔をしかめたその理由は、脳裏によみがえった記憶のせいだった。それこそ骨の髄まで嗅覚に染みついた懐かしさと共に。
 昔——という一言で片づけるには近すぎる日々に、ほとんど体臭のように古書の匂いをまとった存在がすぐ側にいたのだ。たとえ今は、この世のどこにもいないとしても。
 と、やおら帽子のつばを引き下ろした棘は、何かを振り払うように口を開いて、
「それで、どうして私は、この屋敷に招ばれたんです? 依頼内容は〈護衛〉と聞いていますが、つまるところ身辺警護でしょうか」
 訊ねた先には、今回の依頼人の姿があった。
 北爪瑞貴——男性にしては線の細い、優しげな風貌の人物だ。おそらく年齢は30代の後半だろう。が、20代の文学青年に見えないこともない。
 深刻な面持ちをしているが、もともとは人懐っこい性格のようだ。黒目がちの顔には、ラッコや柴犬にも似た愛嬌がある。よほどのひねくれ者でなければ〈善良な一市民〉で片づける顔だろう。もちろん棘は、よほどのひねくれ者の一員だが。
「ええ、そうです。この子の——僕の甥っ子である柊斗の」
 言いつつ瑞貴氏が目をやったのは、その右隣に腰かけた少年だった。
 中学生ほどの年齢だろうか。小柄で痩せた体躯に、灰色の半袖パーカーと黒地の長袖Tシャツ、あちこち擦り切れたブルージーンズから膝小僧を覗かせている。
 目の前で交わされる会話も、聞いているのかいないのか。いや、どうもわざと聞こえないフリで爪をいじっているらしい。大人の不興を買うには十分すぎる態度だ。
 が、それを目にした瑞貴氏は、忍耐強い教師然とした苦笑をこぼして、
「北爪創平——それが、この子の父親です。大手IT企業の創業者として知られていますが、僕たち兄弟を可愛がってくれた祖父が、19世紀イギリス文学の研究者だったこともあって、学生時代から洋古書の蒐集にのめりこんで——兄が集めたこれらの本は、個人のコレクションとしては、国内最大規模だと思います」
「では、こちらも?」
 棘が手にしたのは、テーブルに置かれた洋書の一冊だった。紺青色をした美しいモロッコ革装丁は、指先に吸いつくような、意外なほど柔らかな触り心地だ。
 と、ぱっと瑞貴氏の表情が明るくなって、
「ええ、そうです。アナタがいらっしゃる前、ちょうどこの子に授業をしてたんですが、19世紀の偉大な装丁家であるチャールズ・ルイス式の装丁本です。背の部分に金の箔押し模様がありますが、この綴じ紐の隆起を〈背バンド〉と言って——」
 途端、テーブルに下ろされた棘の指が、タン、と遮るように音を立てた。
 と、はっと我に返ったらしい瑞貴氏が、
「す、すみません。どうも本のことになると熱が入ってしまって」
「ふむ。どうやらアナタ自身も、ずいぶん熱心なコレクターのようだ」
「いえ、とんでもない。祖父と同じイギリス文学の研究者になりましたが、いわゆる富豪だった兄と違って、経済的な余裕もなくて」
 苦笑——いや、自嘲の笑みだ。
「その逆で、兄にはあり余る財力がありました。ここ数年は、表舞台にも顔を出さず、古書の買いつけのためにヨーロッパ中を飛び回っていたようです。そして先月、イギリスのホテルに滞在中、火災に巻きこまれて——」
「では、遺産はそちらの甥御さんが?」
 お悔やみの言葉すら挟まないあけすけさに、さすがの瑞貴氏も鼻白んだようだが、すぐさま気を取り直すように首を振って、
「いえ、残念ながら」
 と応えた顔には、たしかな憐憫の情があった。
「この子の母親は、長年、秘書として兄を支えてくれた女性でした。が、この子が4歳の頃に離婚して、母子ともども兄と縁を切ってしまったんです。しばらくは母一人子一人の生活だったようですが、再婚をきっかけに母方の祖父母に引き取られて——」
 なかなか惨憺たる境遇のようだ。
「片や兄は、独り身のまま亡くなりました。なので本来なら、実子であるこの子が相続人になるはずですが——遺言によって、資産のほとんどを慈善施設に寄付すると」
 なるほど、口ぶりから察するに、夫であり、父である自分を切り捨てた妻子への意趣返しとして、寄付という選択をとったようだ。
 が、その一方で——。
「この屋敷とコレクションは、すべてこの子に遺されました。ただ一つだけ条件があって、叔父である僕から、蔵書に関する知識と扱い方を学ぶようにと。そのために週に一度、今日のような休日を選んで授業をしています」
「なるほど、それでアナタの見返りは?」
 あまりにストレートすぎる物言いに、さすがの瑞貴氏も絶句した。
 しかし数秒後、取り繕うように咳払いをして、
「遺言状の通りなら、コレクションの一部を譲り受けることに。けれど僕としては、この子の未来を第一に考えて——」
「いらないよ、僕は」
 遮るように言ったのは、これまで沈黙を貫いてきた柊斗少年だった。言うや否や、おどおどと視線を伏せると、蚊の鳴くような、としか表現できない声で、
「だから叔父さんの授業もいらない。売ったって、寄付したって——燃やしたって、捨てたって、もうどうでもいい。本なんて、うんざりなんだよ」
 直後、瑞貴氏の目の奥に苛立ちの火花が爆ぜた気がした。
 が、意識して長く息を吐き出すと、痛ましいほど出来の悪い生徒にするように、テーブルにのった小さな手をぽんっと叩いて、
「馬鹿なことを言うものじゃないよ。この本たちを捨てることは、君にとってこの先の人生を捨てるのと同じことだ」
 と、叱られた犬のように項垂れた少年は、スニーカーの爪先で絨毯をこすりながら、
「……本は嫌いなんだ。ただ、それだけだよ」
 その直後に。
「同感ですね」
 声の主は棘だった。が、弾かれたように柊斗少年が顔を上げた時には、素知らぬ顔つきで瑞貴氏に向き直って、
「それで? 巨額のコレクションが甥御さんの手に渡ったのはわかりましたが、どうして私は招ばれたんでしょう? そもそも、できれば依頼は午後にして欲しいと、あらかじめお伝えしたはずですが」
 声にこめられた非難と苛立ちに、瑞貴氏はぎょっと飛び上がった。
 あたふた足元にしゃがみこむと、床に直置きされたショルダーバッグの中から、一通の封筒を取り出して、
「す、すみません。ただ昨日の朝、こんなものが屋敷の郵便受けに届いたので、なるべく早く来て頂きたいと——」
 中から現れたのは、メッセージカードと思しき一枚の紙片だった。
 そして、その中央に——。
「……なるほど、脅迫状ですか」

* * * *


試し読みは、以上です。

青児皓PNG

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