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『ポテト・スープが大好きな猫』

 この薄い、短い内容の本を本屋さんで見かけた時、手に取ったのには、特に理由はない。ただ、猫というタイトルがつき、村上春樹の翻訳だった、というくらいのものだ。

 一緒に暮らしている雌猫と、ちょっとし行き違いがあって、だけど、最後は仲直りというか、また一緒に暮らす日々が続いていく、そんな感じの内容だった。

 いつも吹いている風が、ちょっと強く、でも、ただ通り抜けていく、そんな感じの本だった。

 素朴で、なんかわかるなぁ、ってクスッと思うところがあって、そんな感じの本だった。


 だけど、思うところがあった。
 他の人は多分、何にも意識すらしないこと。
 きっと、ぼくだけが、勝手に気にして思うこと。
 だけど、その意味がわからなくて、悩んでいたこと。
 ここでも見つけちゃった。

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 「別に、ネズミなんか捕まえなくても、何にもしなくても、そのまんまのお前でいればいいんだよ」って、おじいさんは「雌猫」に声をかけていた。

 でもな、お前、魚もねずみも、
 べつにつかまえなくたっていいのだよ、
 お前は今のお前のままでいいんだからさ。

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 でも、もし、その雌猫が、『わたしは “雌猫” なんかじゃない』って言っても、やっぱり、そう言ってくれたのかな?

 なんで、そう思うのかっていうとね。
 この物語、ずっと「雌猫」って表現されているんだ。

「猫」ではなくて、「雌猫」。

まるで、「雌」であることがとても重要な要素であるかのように・・・

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 これは、本の紹介ではなくて、この本を読み終わったとき感じた、ぼくのもやもやを綴ったものです。

Gender-fluid(Non-binary)なぼくが感じるもやもやを綴ったものです。

 とても不思議な、古典的ジェンダー意識をベースに描かれ、その前提で読まれてしまう物語がまだまだ沢山あるこの社会。

 だけど、この先の世界には、どうか二元論を前提としない認識が広がってほしい。

 今、目の前にいる “雌猫” を『雌猫とはこうゆうもの』という思い込みに囚われずに、その個性を、ただ『個性』として捉えるだけの世の中になることを願って、綴ったものです。

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「僕も年取った雌猫を何度も飼った というか一緒に暮らした ことがあるので、その雰囲気はとてもよくわかります。年取った雌猫は大体において気むずかしくて、すぐムッつと腹を立てるのだけれど、感情が細やかで、 きげんの良い時には とても心優しくて、深く気持ちを通じ合わせることができます。」 

翻訳者 村上春樹の解説より。

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ぼくには、この言葉がとても不思議だった。

ぼくも、ずっと猫と一緒に過ごしてきた。
ぼくが一緒に過ごしてきたのは、メス。


―― オスは知らない。ぼくがほんの小さな時、いたらしいけど、ほとんど記憶にない。知らない間にいなくなっちゃってた。でも、たぶん、あんまり関係ないと思う。だって、オス猫って大抵、去勢されちゃうから ――


そんなぼくにとって、この村上春樹の言葉はとても不思議だった。
ぼくが一緒に過ごしてきた年を重ねた猫たちは、全然そんなんじゃなかったんだけど?どゆこと?


 はて、『年取った雌猫』とは誰のこと?


『飼い主に似る』とも云うから、その「せい」なんじゃないのかな?
『年取った雌猫』なんて、年齢と身体的性差の「せい」ではなくてね。


だって、猫って、ものすごーっく個性にあふれた存在だよね。
猫に限らず、犬も、牛も、鶏も、カナヘビも、みーんな個性的。

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 ぼくが小さい時から一緒にいた猫は、ものすごく賢くて強かった。そんで、甘えん坊。すぐ上にのってきて、なでるといっつもゴロゴロ喉をならしてた。

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 ぼくが高校生の頃やってきた、グレイの毛並みの猫は、骨太で、ガツガツよく食べて、鼻息が聞こえてきそうなくらい活発だった。いつも外に出たくて、あちこち歩き回ってた。

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 そして、最後に一緒だった猫は、ひょろっとしてて、とってもビビリ。いつもグレイの毛並みの猫の後ろに隠れてて、ケンカはやられてばっかり。外へ出かけるときもあるけど、家の中で音楽を聴くのが好きみたいだった。弦楽器の音がすると気持ち良さそうにまどろんでいた。そんで、きらいな音楽だと、「ゔゔ〜」って低い声で抗議してきた。

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本当に、みんな個性的。


『年取った雌猫』なんて、あやふやなカテゴリーとして一括りに語ることなんか、できっこないよ。


そして彼らは、きっと、自分が『年取った雌猫』カテゴリーだなんて、認識したことなかったと思うけどな。


『年取った雌猫』だなんて、一体、誰のことなんだろう?


ぼくには、とっても不思議。


だけど、この本の著者・テリー・ファリッシュと翻訳者・村上春樹は『年取った雌猫』で何かを理解し、通じ合ったみたいだね。


ぼくからすると、単に 「 猫 」 という表現で十分だったと思うけどね。


それとも、猫ですら、「雌」と「雄」の違いって、そんなに重要だったのかな?


ぼくには、とっても不思議。

 この素朴な本をこんな風に捉えるのなんて、とってもナンセンスだと思うんだけど、、、この悪気すらも全くない、無意識のジェンダー前提、性差の固定観念そのものがすごく辛かったんだよ、、、ぼくにはね、、、

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