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自ずと生じている「感覚」

感覚というものは、よくよく注意すれば
ひとりでに生じていることがわかる。
このような感覚を生み出そう、味わおう、と意図して生まれてくるものではない。
いつでも、どこでも、どんな時でも、寝ている時以外は、注意を向ければ環境音があるし、体が何かしらに触れている感覚はあるし、食べれば味覚があるし、匂いもあるし、温度感覚もある。
感覚は、我々の意図とは無関係に、ひとりでに生じているし、変化している。
我々が現象や世界、宇宙と呼んでいるものは、この「感覚」の総体のことである。
思考や感情も、よくよく注意してみると、現象の一部としてひとりでにこの身心に生じてくるもので、この世界を構成する一部の断片であり、結局、頭でどう考えようと、理屈でどう説明しようと、コントロールセンターとしての「私」「自分」はそもそもどこにも存在していないのである。
あたかもコントロールセンターとしてこの身心が機能しているように見えるが、実際は、生がこの身心を通じて運動しているでのある。
そもそも自分というコントロールセンターが無かった、ということを理解すると、もう世界を世界、現象を現象、出来事を出来事、自分の反応を自分の反応、葛藤を葛藤と観るしかなくなり、世界が明らむ。

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