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スピード

ー赤か橙か。やさしくふっくらとした女性を思わせるその花の名前を、彼女は知らない。


冬の寒い空気に包まれながら、ぼうっと歩き空を見上げていた彼女の目に、一つの花が映った。

花の先端が内側へくるりと曲がり、まあるくまあるく折り重なるそのふくよかな外形が、彼女を引き付けた。

花の中央にはきれいな黄色が美しく集まっている。そこに吸い寄せられる蝶や蜜蜂を想像し、花を見つめる彼女のこころを一層甘く膨らませた。


周囲には誰もいない。彼女は一人で歩いている。

湖を囲むその歩道は、周径が1km程ある。そこそこの広さであるが、その中に彼女はぽつんと一人で歩いている。


彼女は一人で歩いている。


足元は、先日購入したローファーだ。

周りに人が居れば、散歩には不似合いな真新しい足元だと怪訝な表情を向けるのかもしれない。

1回のランチで消える程のお小遣いで買えたそのローファーは、彼女にとって「手に取りなさい。」と囁かれた様な感覚で手元にやってきた。半分プレゼントされた様な気分だった。

牛の革が赤茶色に艶やかに輝く。


湖には黒と青、そして黄色と白が美しく折り合っている水鳥が、ゆっくりと水紋を広げながら泳いでいる。一匹で。

彼女はその鳥を見つけ、もたつく足で近寄った。

想像していたよりも速く泳いでいくその鳥に、彼女はすぐに名前をつけ、声に出す。

「単(ひとえ)のヒトちゃん。」

マイペースな彼女はその鳥に合わせて歩調を速めた。

「私もヒトちゃんでいいよ。」

鳥はまっすぐと前を向いているだけだが、彼女は鳥に笑顔を向けつつ速足を緩めぬように両腕を前後し始める。まるで児童の様に。

「ヒトちゃん。」

十秒ほど黙って、三回ほど深呼吸をする。

「私ね、

私ね、喋ってなかったの。

私ね、ヒトちゃんに喋ってるの。」

鳥は視線の方向も進行方向も変えずに、ただただ泳いでいる。


少し空を見上げ、また視線を戻し、彼女は嬉しそうに話し始める。

「私ね、この靴を買ったの。すごくお気に入りになったの!

私ね、お散歩に出てみたくなったの。

私ね、ヒトちゃんに会えたの!

私ね、嬉しいの!」


鳥は様子を全く変えずに湖に浮かぶ落ち葉や枯草を、流れを作ったその水でゆらりゆらりと除けていく。


「ヒトちゃん!」

彼女はお構いなく話し続ける。

「私ね、久しぶりにお家から出たの。」

「私ね、もう人に会いたくないなって思ったの。」

「私ね、窓の光で良いやって思ったの。」

「私ね、そう思ったの。がんばったの。」

「私ね、言われたの。お前、変だよって。」

「私ね、嫌だなって思ったの。」

「私ね。」

彼女は話すのを止めた。

水鳥が、目の前に続く橋の下へとすいすいと寄っていき、消えた。


気付けば彼女は湖の半分以上を歩いていた。

折り返しを過ぎた時、先の方に両腕を高く上げ大きく振る女性が満面の笑みで声を出していた。

「まいー!こっちだよー!」

その女性は笑いながら目を輝かせている。

太陽を背にしながら、眩しい光を反射させて輝く湖の水面と共に。

「おかあさーん!!私ね!!」

彼女も満面の笑みで、両腕を不器用に思い切り大きく振り、走り出す。

走る彼女は途中で驚いた顔に変わり、大きく口を開き更に嬉しそうな笑顔で一生懸命走る。

彼女は大声で伝え始める。この数十分で起きた嬉しい出来事を、突然笑顔から泣き顔に変わった母に向けて。


「私ね!綺麗なお花を見つけたの!真ん中の黄色い部分の名前がわからなかったの!」

「私ね!友だちができたの!たくさん話したの!」

「私ね!今走ってるの!走ってるの!」

両腕を不規則に振り乱し息を切らして走る彼女は、自分よりも笑顔なのに泣いている母を不思議に思いながら

広げられた両腕の中に、飛び込んだ。




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