5人家族の41歳男性が、北海道の地域おこし協力隊になるまで。

私は大阪の百貨店で働いていた。
北海道物産大会などの催事を企画する仕事だった。
気づけば、催事の仕事をして10年経っていた。
催事の仕事にやりがいはあったけど、コロナが致命的だった。
売上と集客の最大化。
これが仕事のミッションだった。
集客の最大化…。
コロナはこの部分を挫いた。
やりたい仕事ができない状況が続いた。
会社員なので、経済的には安定していたが、充実さは感じられなかった。
独り身だったら、子供がいなかったら、すぐに転職したかもしれない。
だけど私には、妻と3人の子供がいた。
私は41歳にもなっていた。
転職市場にとって、明るい人材でもなさそうだ。
なによりも家族と安定という言葉が重い。
自分のやりたいことをして、家族と楽しく暮らす。
こんなことはワガママだと自分に言い聞かせ、働いた。

2021年6月。
会社が副業を許可してくれたので、自分のやりたいことをやってみた。
収益性は酷かったが、楽しかった。
この感じだ。
文化祭のように、イベントを作るのが楽しい。
仕事で催事を作っている時も、文化祭のノリを感じられる時は、結果が良かった気がする。このノリを感じながら仕事をして、ご飯を食べることができれば、幸せだろうと夢を見た。

2022年4月、人事異動。
10年ほど所属した催事企画の部署を離れることになった。
新しい部署で、私は仕事に夢中になれなかった。
会社の未来にも、不安を感じてしまった。
安定こそが、支えだったのに…。

コロナ禍で知り合った蕎麦店の店主は、こう言った。
「まだ、41歳でしょ。まだ一回は失敗できるやん」
自分が思ったより、私はまだ自由なのかもしれない。

退職して、北海道に移住する計画を、妻に相談した。
「やりたくない仕事にうじうじするあんたをずっと見るより、面白い人生を過ごせるチャンスを掴みに行く姿を見る方が、ずっといい。収入が落ちるのは、きっとなんとかなるわ」と妻は言った。

前々から、学生時代に過ごした十勝地方でもう一度生活したいと思っていた。
十勝地方で、情報発信やイベント企画のノウハウを活かせそうな仕事を探した。
案の定、そんな都合の良い仕事はなかった。
でも、豊頃町の地域おこし協力隊の募集を見つけた。
フリーミッションの募集だったので、やりたいことを企画書にして応募した。
なんとか合格することができた。

移住の話を子供と両親にした。
「じいじやばあばやお友達と離れるのは嫌だなあ」と子供たちは言った。
「孫たちと離れるのは寂しいなあ」と両親は言った。

合格した後も、プラス材料とマイナス材料を照らし合わせて考えた。
無謀なことに挑戦するんだなと、ドキドキした。
考えれば考えるほど、悪い結果が浮かんできた。
不安は臆病さを掻き立て、私を支配した。
メンタルだけで自分を言い聞かせることは無理な気がしたので、北海道での活動をプラスにするために、関西でできることをめいいっぱいした。
少しだけ心が軽くなった。

これから、たくさんの困難に苦しむことになるだろう。

家族を養いながら、人生を完全燃焼できるかどうかが、勝負。

挑戦者の立ち位置は、得意とする性分だ。
がんばれ、自分。


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