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#20 信用≠信頼

突然ですが、言葉は力を持つ、という言葉を聞いたことがありますか?
言葉は、人間の口から発せられるもので、(マイクロフォンなどを使わない限り)形などは見えません。しかし、僕はこれは強ち間違いではないと思っています。

僕が、こういう時によく例示しているのが信用信頼の違いです。
出典は忘れてしまったのですが、いつかの模試の評論で以下のような文章を読みました。大まかに書いてみると、

信用と信頼は違う。
信用は「契約を結んだとして、もしこの契約を破るのならば、相手には○○という不利益があるのだから、自分の身に何かの不利益が起こることはないだろう」という、何かの保証の下で相手を信じる考え方。
対して、信頼は「何か根拠があるわけではないけれど、全面的に相手のことを信じよう。ひょっとしたら、不利益を被るかもしれない」という、極めて曖昧な根拠の下で相手を信じる考え方である。

宮沢の曖昧な記憶から。

といった内容です。いかがでしょうか?初めて読んだとき、模試そっちのけでこの文章と向き合ったことを覚えています。
ここで少し思い出していただきたいのは、金融機関の存在。「○○信用金庫」って聞いたことありますよね。上記の理論を当てはめれば、このネーミングは極めて合理的ということになるわけです。お金貸すときには何かしらの担保や抵当は取ります。つまり、担保や抵当があるから、自分たちに不利益はないだろう、という安心感の下で融資を行ったりするわけです。

ここで、拙い頭をフル回転させて考えていたのが、この社会で信頼は通用するのだろうか?という疑問です。今の社会は混迷を深めています。タイムリーな話題では、国連のグテーレス事務総長が次のように発言しました。

今回の国連総会は大きな危機の時期に開催されている。地政学的な分断は冷戦期以降、最も大きくなっている。

国連事務総長 “冷戦期以降で最大の分断 対話を通じ打開を”

これは、ウクライナ侵攻を念頭になされた発言ではありますが、混迷を深める国際情勢を如実に表していると捉えても早計ではないと思います。
つまり、何の保証もなしに相手を信じられなくなってしまったのではないかということです。相手の利益・不利益と自分の利益・不利益とを天秤にかけ続ける、少し外交じみた営みが、僕たち市民レベルの日常生活にまで浸透してきてはいないか、少し不安になりました。

何も、信用に基づくことが悪いことだとは思いません。しかし、信頼というのは人間の文明を維持発展させていくうえで非常に重要な要素の一つだと考えています。信用と信頼を区別した古の日本人の考えも想起しながら、いまの世の中をもう一度考えてみたいと思います。

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