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窓からの風景。雨、スニーカー、洗濯物。

厚い雨雲に覆われた朝。濡れた庭の芝だけが、青々として見える。

自分の顔が、窓に映り、誰かが心を覗き込む。

あの頃住んでいたアパートは、大学からは離れた場所にあって、そこは下町と呼ばれていた。アパートは、古くて、取り壊す寸前みたいにボロボロ。カタカナで、意味の分からない屋号が付いていた。

「しゃれた名前と外観が全く合っていないんだよなぁ。」

そう言って圭介は笑った。

それでも、家賃は格安で、大家さんに交渉して、アップライトピアノも置かせてもらえた。大学の近くのピアノも置ける小綺麗なワンルームマンションやアパートに住みたかったのだけれど、どこも家賃が高く、私の乏しい予算に合う物件を見つけることはできなかった。アパートの目の前は駐車場とは名ばかりの空き地で、草がぼうぼうと生えていた。窓を開けると、「月極駐車場」という看板が見えた。バブルの前、東京にはまだそんな意味のない空間が残っていた。私が部屋に持ち込んだ家具は机とベッド、小さなテーブル、そしてピアノ。洋服は、押し入れにパイプを渡して吊るした。

雨が降れば、古い畳が湿って足の裏に張り付くような感じになった。乾燥機なんていうものは、もちろん持っていなかったから、洗濯物はハンガーにかけて窓のカーテンレールにゴタゴタと吊る下げた。お日様の出ない日は、半乾きの洗濯物がうらめしかった。玄関は狭くて、濡れた靴や傘から落ちた水滴で水たまりができた。

ある雨の日、アパートに戻ると圭介のぐしょぐしょに濡れたスニーカーが乱雑にぬぎ捨てられていてた。部屋の合鍵を持っていた圭介が、部屋に上がり込んでいた。足の踏み場もない玄関。圭介のスニーカーの横には、私のお気に入りの華奢なスウェードのサンダル。水たまり。私は、黙って圭介の濡れたスニーカーを斜めに立てかけて、自分のサンダルを下駄箱代わりに使っているカラーボックスの中に入れた。手にした圭介のスニーカーは大きくて、重かった。

大好きだった圭介の思い出。たくさんあるはずなのに、雨の庭を見て、思い出すのが古ぼけたスニーカーだなんて、何だかがっかりする。目を閉じて、もう一度、記憶の海に沈んでみる。

夕闇。ベッドの上で、圭介は、私の胸に頭をのせて雨の音を聞いていた。あの時の自分は、惨めだったのか、幸せだったのか、よく思い出せない。その時の情景も感情も、すっかりと色あせてしまったようだ。

一日中、春の雨。静かな夜。

遅く帰った夫は、ダイニングルームで温め直した夕食を一人で食べている。彼のために、入浴の準備をする。たまには妻らしいこともしないといけない、なんて殊勝な気持ち。双子の娘たちは、まだ帰宅していない。カラリと乾いた洗濯物を乾燥機から取り出す。柔軟剤の優し匂い。ほかほかとした感触。

うす暗い廊下の先にある玄関にふっと目をやる。そこにある夫の靴は、圭介のより少しだけ小さい。几帳面な夫は、きちんと靴をそろえて脱ぐし、スニーカーでも革靴でも濡れたまま置き去りにはしない。

途切れることなく雨の音が聞こえる。圭介の声と白い指が意識の隙間に、再び入り込んでくる。

耳元で圭介がささやく。「雨だれの前奏曲。マジョルカ島の雨。」圭介の手は私の身体の上で優雅に舞う。易々と身体の中心に入り込んでくる彼を、私は、押しとどめることができない。持っていた洗濯物をぎゅっと抱きしめる。深呼吸をしてゆっくりと、目を開ける。

白いタイル張りの玄関には、丁寧に水滴を拭かれた夫の黒い革靴が置かれていた。私のサンダルは、ピンクのクロックス。

「ふふふ」と笑顔が漏れた。

温かくふわふわの洗濯物にもう一度顔を埋めながら、明るいリビングルームのドアを開けた。

「洗濯物、ふわふわだよ。気持ちいい。」

夫は、穏やかな笑顔を見せた。






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