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「歎異抄」

お師匠様は仰います。

何事も基礎が大事だよ、、、

と。


【人の罪】

人はなぜ人を裁くのだろう。

私はなぜ ”怒り” がいつも心に巣食うのだろう。

人はなんて悲しいのだろう。。。


前回の長編(笑)


さっき読み返して、あまりにも長いから。
そりゃそうだ。7時間も書かないでしょ、普通(笑)


分けてみた。

実はこの「note」に書いてる文字たちと写真、

私がgoogleドキュメントに書き起こして
私が撮った写真と一緒に、
夢実現プロジェクトのメンバーに
文字列整えてnoteに掲載してもらっている。


実際には、「分けてくださいませm(__)m」とお願いをして
やっていただいた (*´∀`)

私が ”有りの侭” の人生をお話している大切な人でもある。
彼女には、私がこの人生で誰にも言っていないことを
先日打ち明けたばかりだ。


肩の荷が降りた、というか、
「王様の耳はロバの耳」というか。

彼女の存在のお陰でこの3年、
救われてきたことがたくさんある。
もし私一人だったら
折れてたかもしれない時も、侭ある。

私は一人では何もできない。


彼女は私に「生きるのがヘタ」と、

この不器用な私を慈しんでくれる。

私、ちょっと、偏ってて。


一つのことに没頭して
何かを絞り出すように
情熱を表出させてることはできる。


それは、音だったり、絵だったり、写真だったり、文字だったり、
それは、仕事だったり、思いだったり、伝えることだったり
今は、声だったり。


彼女がこの3年、私の中の光を見てくれていた。
私がどんなに暗闇にいても、彼女は淡々と、
私が大切にしてきたことを見出して目を逸らさないで、
いつも見据えていてくれた。

「ラジオやったらいい」「美知子語録やったらいい」
「Facebookライブやったらいい」「ブログ書くならnoteがいい」

そう言って私を引っ張り出してくれた。

言葉では言わないけど、
いつもそんな時、

”大丈夫、私が一緒にやるから”

って聞こえてくる。

私は
お師匠様の元で自分の宿命を深く知ることで
自分のこの不器用な人生をとても好きになれたけど、


それはもしかしたら、
実践する場所に彼女がいつも
私の肩を押してくれてきたからかもしれない、と最近思う。


お師匠様が教えてくださることを実践するためには、
関わり合う相手も、環境も、行動も、現実がないと
ただの机上の空論になってしまうから。


頭でわかってても実践する場所がなければ
人生が変化するような出来事の数々には到底巡り逢えない。

私一人だったら、
まずfacebookライブで熱く思いを語るなんて
どんなに宿命が開花すると言われたとしてもきっと
死んでもやらなかった。


今日も、彼女と打ち合わせをして、
”在りのまま” の私でいられる。

何も頑張らず、ただ私の中の ”キラキラするものたち” や

”答えの出ない迷いや不安” を分かち合う時間。


時に直球を投げて「今どう思ってる?」と聞くこともある。


週に1度、彼女とのミーティングは過去のどの仕事でも有り得ない
ただ今 ”心に有ること” を徒然と話して
お互いを共有するだけなのに、

ミーティングが終わる時間にはしっかりと、
夢実現プロジェクトがここから何をするのかどこに向かうのかが
お互いに明確に握り合っている状態が時間内にピタッと

GOできる状態になる。


これはどちらか一方でも、
心を偽っていたらこうはならないだろう。

この3年で彼女と毎週毎週、こうして心を伝え合って、
積み重ねてきた。


だから私たちの間に名前はない。

親友とか戦友とかパートナーとか上司部下とか同志とか
そういう名前がない。


ただ、お互いがお互いで

 ただ ”在る”

だけだ。


お空の星のように、
ただ、それぞれがただそれぞれに光っているのに
人はそこに名前を付けたがる。


星座、何かの形に線を引いた。

誰かが。


いつ?


なんで?


それがとてもドラマティックかもしれないけど。


みんなは気がついてるのか。

誰かが定めた何かに全て支配されていることに
気がついているのか、、、、

と思う。

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もちろん、子供の頃から夏の星座は好きだ。



細かな星が見えないせいか、より一層、美しく見えるから。


真っ暗に一つだけ、美しく、輝くのに、
夏の暑い夜にそよぐ風が不思議とあの輝きを力強く感じさせてくれた。


子供の頃、夏休み、預けられてて、父が迎えに来て、
月明かりの空を見上げて、
家になぜか一冊だけあった「夏の星座」の本を思い出して
自分がさそり座だからか、
いつもさそり座を探したりしたw


今日は大阪の南の空に
ベランダから一つ大きく宝石のように見えるあれは
木星と、その斜め右に少し下がって小さく輝いているのは、、、
Google先生はなんでも教えてくれる、木星と土星が見えるらしい。

星座の神話が嫌いなわけでもない。
むしろ、
七夕にはベガとアルタイルが会えたらいいな。と私も思うし

人生で恋焦がれる人に巡り逢えたらそれも幸せだろうと思う。
(その希望を捨ててはいないwww)


言いたいのは、信じて疑わないものを、
疑ってみてもいいのじゃないか、ということ。


世の中は決められごとでできている。


もちろんそれを秩序というし、社会というし
公的概念が必要だ。


原始人じゃないかぎり、
社会という名の共同生活で
文明を発展させるために必要だと人間が望んだから。


でも本当に文明を発展させるためだけ?


私欲があったらダメなんてことを言いたいのではないの。
私も私欲まみれだしw


でも、自分にとって都合の良いことで、誰かが悲しむと思った時に
チクリと胸を刺したりはしないのだろうか。と思うことがたくさん
ある。

常識って、、、

誰が決めた?
そうじゃないとダメだって。
そうじゃないと人じゃないって。
そうじゃないと愛されないって
誰が決めた?


倫理観って、正義っていうけど、本当にそれ、
その瞬間、人が幸せであなたも幸せになるために選択
してる?


私はそんなに優秀じゃないから、
すぐ自分を守るし、自分が傷付いてることを人のせいにしてきたし
感情の基準が自分の概念や自分都合になってしまうから、


だからたくさん悲しい出来事が起こしてきてしまってしまったと思う。

このブログだって、
私の脳の感じてることや記憶してることの
都合だ(笑)


迎合せずに、それでいて、人に優しく。


とても難しい。私には。

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(スタディスタイル自然学習館より拝借)


私には子供の頃からできないことがあって、例えば。


決められたノートの升目の中に文字が書けなかった。
決められた時間通りにことが進まなかった。

宿題がやれなかったし、人と話す時に言葉が詰まってちゃんと話せなかった。

笑い方がわからなかったし、サボり方がわからなかった。
(本当に体調が悪くなって堂々と早退をするw)

嘘が付けなかったし、愛想笑いができなかった。

なのに、いつの間にだろう。。。

私は、人が読めるように正しく文字を書くようになり
(実は30歳すぎてからw)


もしもの時間を確保して準備して
時間より前に行動するようになって
(これも25歳くらいかも(^^;)

期限内に売り上げを生み出すことを覚えて
何かを演じながら人と話すようになってた。

社会人として、人として、って四角い正しさの箱に収まれるようになったのが嬉しいくらいだった。

人と同じことができないのが悲しかったし劣等感だったから

誰よりも全部「ちゃんと」してると一番になれるって
良い気分の、味を占めてしまった。

在りのままの自分なんて愛されないっていう証拠が
現実問題、たくさんあったんだ。


だから強制的に矯正した。
トレーニングも受けた。


だって、「そうじゃないとここには居られない」って。
だから、息苦しくて、自分を抑えてないといけないから
いつも集団が苦手だった。
でも愛してるから一緒に居たくて自分を変えることを厭わなかった。


自分らしさと、なりたい自分との、


取引だった。


人は私に


「コミュニケーション能力高いですよね」


と仰る。

理由は簡単。生きるために適応してきたんだと思う。


18歳で上京して、たくさんアルバイトを掛け持ちして
命を注げる何かを探しながら、自分で食べていくために毎日を生きていた。

短大は友達がすぐにできてもやっぱり上手く付き合えなくて、
卒業式には袴を履いて一人で式に出た。


式典にだけ母もいたような、居なかったような
。。。

記憶がない。

写真も、ない。

綺麗なオレンジの着物と、若草色の袴だったことは覚えてる。
自分で選んだ、住んでたアパートのそばの美容室で。


ただ、3月なのに足元が悪くて、
入学式より随分悲しかったのを覚えている。


アルバイトの中でも
皮膚学と化粧品化学、生理学に没頭して美容業に打ち込んで
19歳でクローザーデビューしていた。気がついたら。

目の前のその人の心の悲しみが聞こえてきて

「もしこの肌が綺麗になったら、もっと自分を好きになれるのに」


私自身がそう思って自分の肌と心と向き合っていたから、

ニキビやアトピーや体のこと、
生まれつきの多毛症や体臭で悩む
同世代の女の子たちが自然と私の周りに集まってきた。


だから、売り上げのためではないと言えば嘘になるけど、
目の前のその


”私を信じて飛び込んできてくれた人”


に、その未来を見せたくて、


綺麗になった肌で鏡に映る自分を見て欲しくて
その時に心に宿る煌めきを知って欲しくて

その心に花が咲くように、


外見を磨きながら、
やっていることは心を磨くことだったから、

だから、気がついたら無我夢中で、
伝えたいことをどんなに不器用でも
言葉が伝わらないなら行動で示せばいいと思って


無我夢中で関わってきた。

その人の人生そのものに。


それが私が食べさせて頂いているお仕事だった。

美容を通して可能性の花が咲くまで
あなたらしく、私らしく

って掲げて。


これは消して過去に執着しているのではなくて、
今もそう思う気持ちが変わらないから。


でも今はこの美容は 

「美しい人生」

に変わった。


崖も泥水も
底無しに見える沼のような暗闇も
一筋の光も月が浮かぶ空も
雨を弾く葉も晴れない空も
大切な人の笑顔も笑い声も
誰かが必死で乗り越えようとする姿も
それを応援する人も
全ての景色を


美しいと感じられることが、

私の思う 美しい人生

「美知は馬鹿正直で不器用で人と付き合うのが下手だけど、その馬鹿がつくほど正直なところは、そこだけは変わらないで」


28歳の頃、私を育ててくれた美容の恩師の一人が
苦しんでる私にそう言ってくれたことを一度たりとも忘れたことはない。


なのに。

この15年、色んなことがあって、


いつの間にか、
曖昧なエネルギーで
逃げるようになっていた自分がいた。

ハッとした。
お師匠様に吐露した私のとある懺悔の気持ちに対して
お返しくださった一通のメール。

詳細は伏せるが、

そこにあったのは、私にとって ”父の愛” だった。
私の可能性を誰よりも信じて、
たった一点、本当に大切なことを
ど真ん中にザクっと矢で射抜くような
その言葉たちを何度も何度も読み返した。
涙が止まらなかった。


今、私の携帯画面は開けば
すぐに目に入るようにそのメッセージが貼ってある。
勇気が湧く、誠実でいられる、
目を見開いて、何をすべきかが見える
自分を律して、今生き方を変える時、
この言葉たちが私を奮い立たせてくれた。

もう、曖昧なエネルギーで逃げない。


でも、私は脆い。

毎日読んで、いつも自分と向き合って、
毎日帝王学を耳で聴きながら
自分と対話する時間を作るのに、

現実は、


一瞬で持っていかれる。


自分の「怒り」に。


あー
。。。


またやってしまった。。。。


その連続。


理想の自分と現実の自分。


もちろん、1ヶ月前の私とも違うし、
前回長編(笑)を書いたときの
自分からも随分変わっている実感があるけど


染み付いた「正しさ」が取れない。

長い間、取引してきた。
とても努力をして。


そして、

「私は正しい」

無意識に発動してる。
そうやってなんとか立ってきたから
その時はそれが必要だったんだと思うけど、


今はもう、いらないじゃないか。

そんなの。


なのに、なかなか居なくなってくれない。

”人の罪”  はそれだと思う。

「正しさ」


習慣は無意識に発動して、
本人の望まないと思っている結果であっても
引き寄せてしまうのだと思う。

諍いが起きてしまう。
戦争が起きてしまう。

誰が決めたの、


土地って。。。。

って思ったことない?

戦後焼け野原の東京で

どこからどこまでが
誰の土地って誰が決めたのって


上京した時から思ってた。

誰か、もっともらしいこと言う圧強めの人がいて、
その人に従ってしまううちにそのほうがラクだったりする。
誰かの正しさに乗っかってた方が争わなくて済むことが多い。
争いは疲れる。
しかも困ったことにその圧強めの主張を押し通してしまう人は
自分が正しいと思って疑っていないからやり通せてしまうのだ。

むしろ羨ましいくらいだけど。

私はそう思うけど、
そうじゃなくて
本当に素直に信じてしまう人たちもいると思う。


ちょっと豆知識ね。

人間は集団で生きる生き物だから? なのか?


脳科学では、
日本人は67%がセロトニンが少ないSS型で、
不安が起因で集団形成をして、
主張の強いものに標準を合わせて
共通の概念を強固にすることで
排他する習性を本能で持ってるって。守備本能ですな。。。


貝塚が発見されているより
もっと前から始まってるらしいその村社会で、
鬱になりやすいはずのその人たちは
自分たちの基準で見たいように見て
自分たちの正当性を保って排他するから、
セロトニンが多く本来自由でおおらかで
鬱になりにくいはずのLS型やLL型の人、
わかりやすく言うと欧米型の人が日本では逆に鬱になるらしい。

で、話を戻すと、

なんで喧嘩するの、

「私はなんで喧嘩するの」ってその頃思ってた。


怒りで人に頭から水をぶっかけたことがある人を
ドラマ以外で見たことがあるだろうか。


19歳の私だ(笑)

「許せない」とか「悔しい」とか
怒りの感情がいつもいつも
私の人生を埋めてた頃があった。

お恥ずかしい話、
30歳過ぎまで男の子と
掴み合いの喧嘩することはよくあった(^^;


男友達たちが全力で止めに入ってくれても
怒りが治まるまでなかなか大変だった。


女の子は、腹が立ってもそうはいかないから、苦手だった^^;
でも追い詰められて気がついたら言葉の刃で
相手が立ち直れないくらいに
滅多刺しにしていたこともあった。。。


28歳から心のトレーニングを受けてきて、
猛獣って言われてた私も
人並みに人と生きれるようにはなって、


牙も爪も取れたって言われたりして、
でもそんな私が上京してすぐに美容業に没頭したのはきっと

その仕事そのものには
怒りが湧くことはなかったからだと思う。
命を注いで夢中になれた。

一所懸命に、誰にも認められなくても、
ただ、一所懸命に、
目の前のお客様の綺麗になる結果のためだけに
生きていればよかった。

寝ずに練習して、勉強して、
実になるまでは生活のために他にも仕事をして、
疲れ果てて寝て、4時間寝たらまた起きて仕事に行って。


スタッフたちは愛するが故の怒りや悲しみはあったけれど
憎んだり恨んだりすることはなかったから


私が生きている実感を
得られた場所だったんだと思う。

そして43歳を迎える私は

今、 「生き方」 を扱う人生を選んだ。

美容の時と同じ、自分がまずできないことは人に伝えられない。

だから、私がもし人に伝えたいことがあっても、
私がそのようにまず生きていないと伝わらない。
だから今とても踠いている。


お師匠様は、ご自身で体験してきたこと、
学んでいらしたことを伝えてくださる。
だからその一つ一つの言葉に


命が宿っている。

そして仰る。

我を張るな、明日生きてると思うな、
人に優しく、一所懸命生きよ、

何事も、基礎の繰り返し、

基礎が大事だよ。

と。


”人に優しく”

人類が自分以外のもののために全力で生きていたら
この地球はどれだけ美しいことだろうか。


でもこの世がきっと、
人の世がきっと
人の数だけたくさんの
「小さな罪」でひしめき合っているから


だからきっと、
美しいものを美しいと
感じることができるのだろう。

暗闇の中の一等星が光り輝くように。

画像2

(HONDAより拝借)

私はこの1ヶ月の間、毎日、
お師匠様の帝王学の音声を
耳から入れながら1時間半歩く。

ジョブズだったろうか、
歩きながら思考するのが一番脳が活性すると言って、
考え事をする時に必ずウロウロすると言っていたのは。

ほぼ何も持たず、日傘をさして、
緑や空や鳥や遠くの雲を見ながら
ひたすら一所懸命に歩く。
汗だくになりながら、声を聞いて。

その途中に、蓮池に寄る。


私は毎日、この蓮池の蓮の蕾が咲くのを
楽しみに毎日、ここに来る。


モネの睡蓮のような景色を生で見れると思って、

でも実際には生い茂った葉が花を隠すし
そんなに揃い咲いてはいないことを
知って少しショックだったりして、


でも、毎日


「あ、ここにまた蕾ができた。」
「あ、この子はもうすぐ咲くかな」


そうやって期待して


でも毎日、一本ずつ


折られていく。誰かが折っていく。

もうすぐ咲くはずだった蕾が、
昨日帰りに話しかけて帰った蕾が、


今日も折られて居なくなってる。

毎日、


毎日。


一本、また一本。

だから、
前回アップした睡蓮は、
たった一輪、美しく咲いて居たけど、

あれ以来、美しく凛と咲く睡蓮を見れていない。


折れた茎が何本も何本も変色して、
たくさんの蕾が咲けば
おそらくこの世のものと思えないほど
美しかったであろうその一角はもう残骸しかない。

最初は、悲しかった。

一本ずつ居なくなって、

なんて心ない人がいるんだろう。


そう思って。


でもまだこの子もいるし、あそこにも蕾出てきたしって

明日かな、明後日かな、って毎日、
今日は綺麗な大輪の睡蓮がいくつも咲いてるのを見れると思って、
やっと会える人に会いにいく時のように心が弾んで


で、また折られてる。


しかも毟り折るよな茎の痕が、とても痛々しくて、


「可哀そう。。。」って切なくなって。

でもまたここにも蕾がついてるから
きっと明日はどの子かが美しく咲く

そうやってまた明日に期待して


そうやってもう二週間くらい、


そして今日、

もう怒りだった。

手も届かないようなところを、
故意に盗み摘もうとしないと届かないようなところを、
毟り折って行った人がいる、しかも数本。
そんなに毎日誰かれ構わず多くの人がそうなのだろうか。。。
ここはそんなに自分勝手な人が多いのだろうか。。。
それとも、世の中は公園に咲いてる花を禁止と書いてなければ勝手に毟り折って持って帰るのが普通のことなのか?
私がおかしいのか?

あ、禁止って書かないとやるから禁止って書くのか。
じゃ、ここは禁止って書いてないから
折っていいと思って
折ってる人たちがいて、それが普通なのか?


ウロウロしている人が私が行くとさっと離れたのを見て、
「この人もバレなければ折ろうとしてたのだろうか」
と疑ってしまう自分が嫌になった。


この人ももしかして私と同じように
悲しんでいる人なのかもしれないし、
と思い直してみたりして。
人の心はわからないけど、、、

それでも怒りが、誰かに言う事もなく、
だからここに書いてしまっているけど、怒りが。

なんなの!!!!
自分さえ良ければいいのか!!
ここに毎日、まだ見ぬ景色を楽しみに来る人たちの
悲しむ顔があなたには見えないのか!!!!


やり場のない怒りがふつふつと、湧いてきて。

でも
その瞬間、また新しい蕾が、目に入った。


「あー、人の一生を見ているようだ」

と思った。

私はそこに、
人を重ねて見ていたことに気がついた。

美しく咲く大輪の蓮の花、
私が見たかった景色は、
かつて、誰かの心に灯った
小さな輝きが愛おしくて
大輪の花よ、咲け!!!って強く願って、
たくさんのお客様が、なりたい姿になるために、
無我夢中で関わってきた、
あの頃のときめきと同じだったのかもしれない。


全てのお客様がうまく行ったわけではない、
諦めた方もいる。
とりわけ、夢を描いて共に生きた
スタッフや仲間や先輩たちの多くは
その希望を、花が咲く前に折ってしまった、折れてしまった。

関わり切れなかったり、
関わり方を間違えたり、
私のせいだと自分を責めたり、
自分が感じ取った忘れられないあの瞬間の景色を
「あの時はあれが精一杯だった」と言う自分の罪の意識を
投影していたのかもしれない、と


今は思う。


でもその蓮池の前に立ってその瞬間は、
人の世に見えた。

たくさんの夢を持った人たちが、その花を咲かせないまま、
折れて、花であったことも忘れて、
首を垂れて傷を負って、その傷が古くなってやがて朽ちていく。
その傍に、新しく硬く小さな蕾が、
勢いよく天を目指して伸びていく、次から次へと。

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人もこうしてたくさんの命が、
その短い一生を咲かせないまま終える人が
どのくらいいるのだろう。


そしてその傍に青々として蕾が、
まだこれから可能性を秘めて


自分の人生に挑戦していく姿に見えた。

この蓮池の茎の数を数えたら人口のどのくらいなんだろう、
なんて思って。


そしたら、今私に沸き起こっていた「怒り」が薄れていった。


その怒りは、

自分の欲求と自分の正しさでしかなくて

その人を「罪」と裁いている私の「罪」なのだと思った。

放っておいてもいつか朽ちる、そしてまたその傍に新しい命が宿る

ただ自然は、善も悪もなく、


自分が美しいかどうかを見ることもなく、
ただ、一所懸命に生きている。


まだ、未練はある。
足はもう前に進んでるのに、
惜しい思いが痕を残す。
感情が行ったり来たりする。
見たかった。美しい睡蓮の咲き乱れる景色を。
後ろ髪を引かれるような心と、過去は戻らないと思う頭と。
折って行った人を責める気持ちと。


なんて小さなイザコザに人は塗れて(まみれて)しまって、
私は感情に塗れてしまって。


「そんな、公園の花くらいで」
と思う人がいるかもしれない。
睡蓮には特別な思い入れがある


そして、
おそらく前述のように
私の中に重なる何かがあるからだろう。


過去と今と未来を行ったり来たりする
自分を責めたり人を責めたりする私の感情の揺らぎは、
相手が花でなくてもいつも起こす
私の心の癖そのものだ。

この美しく生きる蓮の根元には
腐りかけた沼の水に落ちた葉が浮いている。
黄ばんで、泥に溶けて、淀んで。
消して私は触りたくないと思ってしまう汚れた水。

そしてそれがこの自然が生んだ在るが儘の姿で、
その水の中からこの美しい花たちは息吹いている。


汚い、醜い、ということすら、
もう、ただ私の主観でしかない。
と知らしめられる。


この自然界に生きる生き物の中で他に、
思考や思想や嗜好や趣向を持って、
何かを裁くことを
当たり前に生きているものがあるだろうか。


人の罪深き由縁だと思った。

だからこそ、「生き方」を求めて古来
人は永遠に答えのない命の行き先を
探究してきたのではないかと思う。

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あ。もう6時間。。。
なんでタイトルが「歎異抄」なのか、
辿りつかなかったけど(笑)


そろそろ勘のよろしい方は
この続きに何が展開するのか
ちょっと匂っていらっしゃるかしら。


あ、そもそも歎異抄がね、何かってことですね。
受験で古文でちょこっと出たけどね昔(笑)


ではでは続きはまた次回。


あ。明日からフライング天中殺です私。。。それもお楽しみに。

2021.8.3


辛丑
乙未
癸未

美知子

【鏡花水月】
鏡に映った花や水に映った月のように、目に見えていながら手に取ることが出来ないものの例え、知覚することはできるが現実に触れることのできない幻影


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