見出し画像

『肉を食べないという選択肢』 ぱぁ〜と9

最近もっとも気になるTVコマーシャルがあります。ジャパネットさんの生産者応援プロジェクトというものです。

女優・吉瀬美智子さんが仙台の佐野ファームという畜産家を尋ね労い、そこの牛肉を使ったすき焼き?を食べている消費者の西垣さんとネットでつなぐというもの。「うん、がんばってね!私もジャパネットを通して仙台牛肉を購入して応援するから」というのが主なのであろうことはわかっています。。。って、そんな想い以上に気になったことがあります。

「手塩に掛けて育てた牛を殺して肉片にしちゃうんだぁ〜」

職業として写真を撮影させていただけているために、北海道の酪農畜産農家を訪れて撮影させていただいたこともあります。ただその時はそんな考えは微塵もありませんでした。

編集者であった前妻、ライターさん、そして撮影者の私。印象に残っているのは、人が1人だけ入ったとしても身動きもとれないほどの、ゴミ箱を逆さにしたような入れ物に入れられた仔牛、それを魚眼レンズを用いてそこに開けられた顔だけ出せる窓から撮影のことくらい。

こんな記憶と同じくらい薄らとした感じでわかっていたこと。それが当たり前であったために違和感を伴っていたけれどもそのまま過ぎてきたこと。肉を食べなくなった今だからこそ言えること、考え。

自分の子のように大切に育てて殺す

それを生活として、仕事として繰り返して1年を過ごす。そして何年も繰り返す日常、そこにある生産者の気持ちは?! 産まれた時から命日が決まっている子の気持ちは?!。

面白いと言ってしまっては非常に不謹慎であるのもわかります。しかし私自身が「死」というものをかなり身近に感じ、隣り合わせでいつもそこにいるためか、このこと自体が感覚として面白く想ってしまいます。

『親が自分の生活のためにと子をお腹に宿し、出産して育てて成人したら殺し、肉として売りお金に換える』。

これまで想っていたことがあります。もちろん口に出して言ってもいました。「最高、最大の愛情表現はその愛する相手を食して自分の中に取り込み、自分を構成する細胞の一部にしてしまうということ」。でもそこには愛する相手の命を奪い、存在として愛しているのに生命体としては一緒には居られなくなるということ。これが同時に起こるということ。

ただそこにはあるのは、自分の空腹を満たしたりするためでも金稼ぎのためでもない。ただ単に愛情表現。

その昔、1981年フランスで佐川一政という日本人男性が恋人を殺して食べてしまったということがありました。当時からそれが私の脳裏に残り、その脳裏に存在していたであろう興味がのちの私の思考にまでたどり着いたのではないかと自己分析しています。でもいまだに食してしまうことと一緒に居たいということの同時には望めない、起こらない選択肢。恒久的な物質的な存在の確保、脳内選択さえも出来ずにおります。そしてそれはこの食肉としての話ではありません。だから食肉生産者の方とは違うところにいるのであろうことは容易にわかります。でも憎くて殺すことと、愛するが故に殺すこと、殺す、自らが勝手に命を奪ってしまうことにはかわりはありません。

牛、豚、鶏、馬、うさぎ、犬、猫、猿、、、、

それは肉となったあとの生肉店の方々、もう目の前にあるのは食材でしかない消費者とはまったく異なっている思考。ではまだ生命をともなっている時の愛する相手、この生産者の方の思考はどこにあるのでしょうか?!

今、また畜産農家の方の話を聴いてみたい。どのような思考の中で愛して育てて殺して肉として売り、果たして自分たちではその子供の肉を食しているのかどうかということを。

佐野ファームの佐野さん、自分が育てた牛を肉として美味しいと言って食べる姿はジャパネットさんでは描かれてはおらず、想像することしかできません。

もしまた畜産酪農農家の方々にお話をうかがえる機会が訪れ、現地を撮影するという依頼が来たとしても、今の私では行くことはないと思います。もちろん何かの都合で訪れることになっても、伴侶は連れていきません。牧場破壊するくらいに暴れるから(爆)

よろしければサポートをお願いいたします。 サポートしていただけますことが次へとつながります。夢をひろげて笑顔をひろめていきたいと願っております。