書評:岡野八代『ケアの倫理ーーフェミニズムの政治思想』(岩波新書)


 ケアの倫理は人間は弱いものだというところから始まる。もちろん経済学的にはケアは消費を内容としている。消費とは物の姿を消(け)し費(ついや)すことだがゼロにすることではなく、物の姿を変えて、身体に取り込んだり(食)、身につけたり(衣)、居場所を作りメインテナンスする(住)ことである。これが人間と生活手段の結合様式、生活様式のシステムを決めるのだが、それがケアに関わってくる。
 我々の世代だと社会科学の基本は労働概念にあったが、それと生活をつなぐ議論はなかった。労働には英語で言えばworkとlabourという二重性がある。workは漢字でいえば労働の「働(はたら)く」にあたるが、それは「徴(はた)る」を語源とし、自分自身を特定の目的にむけて「はたる」「はたらかせる」ことである。それに対してlabourは労働の「労」にあたり、労役・労苦の意味が強く、疲労の労、「疲れる」とも読む。いわゆる目的意識的労働と生理的労働である。文明を称して「労働が第一だ」という声はつねに声高だが、この『ケアの倫理』を読んでいると、人間にとってはいつの時代もまずは生活が大事だということを思い知る。ケアは後者を維持するシステムとして労働概念よりも根本的なものである。労働の「労」には「疲れる」と同時に「いたわる、ねぎらう、はげます」などの訓みがあることも示唆的である。
 我々の世代にとって人間の歴史は人格的依存関係の展開の歴史だというのも常識だったが、岡野は依存関係の基礎には人間の脆弱さがあるという。岡野はこの人間の弱さへの内省こそが倫理学の基本だというアメリカのフェミニズム哲学を紹介し、それにもとづいた「ケアの民主主義」をいい、それを担うためには政治学と倫理学の関係を深めなければならないという。これは歴史学と倫理学にもあてはまるのではないだろうか。倫理は歴史的なものだからである。現在の歴史倫理の問題はそれなしに解くことはできない。そして教育は人格と人格の最初の本格的な接触の場、倫理学の実験場だろうから、歴史学と倫理学の関係を考える上で歴史教育の位置はもっとも重要だと思う。
 倫理の問題は対アジア・アメリカ戦争後の歴史学や歴史教育にとって一つの弱さだったのではないだろうか。私はこの一〇年ほど日本における歴史的倫理を問うためには、どうしても日本国家がそれを掲げて戦争をした「神話」の内実を明らかにする必要があると考えて、日本神話の研究をしてきた。そしてそのための準備作業として、平田篤胤が日本神話に大きな影響をあたえたという『老子』の注釈作業をした(『現代語訳 老子』ちくま新書)。話は飛ぶようだが、『ケアの倫理』を読んでみて、歴史学・日本史学の「倫理学化」のためには『老子』が必須だと考えるようになった。それは「神話」を問うことが必須だということでもあるが、何よりも『老子』の倫理思想は儒学とはまったく異なって、人間の弱さ、そして柔らかさこそが人間の強さであることを一貫して説いているからである。
 『ケアの倫理』はフェミニズムからみて、ヨーロッパの政治思想と哲学に「ケアと弱さ」の思想が欠落していることの驚きが語るが、それを読んで、東アジア思想における『老子』の大事さをあらためて確認している。歴史の関係者にはこの本と『老子』の両方を読み比べてみてほしいと思う。

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