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秋葉原 前編 (小説)

 君よ。アニメを観るか。観なくたって何ということはないさ。メイドカフェに行ったことがあるか。行かなくたって何ということはないさ。
 しかし、アニメやメイドカフェが、オタクという名の、陰キャラの、コミュ障の、メガネ率の高い、鼻息の荒い、独りぼっちの人間たちのものであると思うなら、この『秋葉原』と題するメイドカフェ探訪記が、君に新しい視点をさずけるだろう!
 当たりまえであるが、何ごともイメージで切り捨てるのはよろしくない。アニメやメイドカフェに救われている人間がいることを忘れてはいけない。たった一度きりの人生なんだ。いろんな人間とつるんでもみても悪くない。案外意図しないところに、気の合うひとが居るものである。
 わたしもアニメオタクだった時期がある。二〇一〇年、中二の時である。そのころはまだアニオタに人権がなかった。キモイだのモテナイだの実にひどい言われぶりであった。そんな折にやけに明るい野球少年が私に話しかけてきて、彼はアニメを観なかったが、私の言うことを面白がったのだった。彼の明るい笑みは、私を救ったのである。彼は、人一倍情に厚く、お笑いのセンスがある、クラスの人気者であった。そいつはアニオタの私となぜか意気投合したのである。教室の休み時間に、校庭の青葉の風の吹き込む窓際の席で、滑稽話を交わして笑い合う仲だったのである。人生、決めてかかると損をする。思いもしないつながりが、自分を大きく変えることがある。
 しかし、「ふつう」をよそおう世間からすると、アニオタ、ましてメイド好きなんて人種とは、ある程度、距離を置きたいかもしれない。虚構を愛好する、その陰気なイメージが先行してしまって、強いて関わりを持とうと思えないかもしれない。それは個人の自由だろう。
 しかし、そんな人間と関わる意味が分からんな、だとか、自分には理解ができない人間であるな、だとか、人間が別の人間に対して距離をとることはなんとたやすいことだろう。いくらでも他人から離れることができる。いくらでも他人を無視することができる。いくらでも他人をはねのけることができる。いくらでも他人に無関心でいることができる。完膚かんぷなきまでに無いものとしてあつかうことなど、人間が意識的になれば朝飯前にできてしまうことなのだ。むしろ、距離をせばめることの難しさったらないんだ。こちらがせばめたい距離は、相手からすれば遠ざけたい距離かもしれない。相手がせばめたい距離は、こちらが遠ざけたい距離かもしれない。古今東西、二人が距離をせばめられた奇跡ってのは、語り継いで止むことがないのである。同時に、二人が距離をせばめてから再び距離をつくることの悲しみも語り継いで止むことはない。
 さあ、君よ、小説は、そこにあるまま動いたりしないだろう。むしろ、小説は、君と関わるためにあるだろう。君は小説との距離を選ぶ権利がある。入りたかったら入ればよいさ。出たかったら出るがよいさ。この小説の登場人物に、気兼ねはいらない。君の成すにまかせる。君と肩を交わし合うこともできる。登場人物は君を置き去りにして、秋葉原の雑踏に埋もれはしない。秋葉原を純粋な観察対象として眺めるきり、君のそばにいつづけるだろう!
 君はわたしをハイテンションな人間と見ているかもしれない。しかし、わたしはちょっと照れている。わたしは半分苦笑気味に叫んでいるのだ。君の頬をゆるませるために、ぎこちなく笑みをたたえて叫んでいる。わたしは君の味方でいたいと思う。とくに心のすたれた君の味方でいたい。なぜなら、わたしはひとの廃れた心がよく分かるからである。君の心がどんなに廃れようとも、わたしの心の廃れっぷりに及ぶことはない。わたしの心のすれ具合は尋常ではないからである。わたしはなかなか挫けないから、心を擦り傷だらけにして平気で笑うことができる。無理をしているわけではない。たんじゅんにそういう生き方が性に合っているだけなのだ。だが、だからこそ、よいこともある。わたしには君の痛みが分かる。そこらへんの人間よりは君の痛みが分かると断言できる。わたしは不幸ではない。人の痛みが人より分かることは、人として幸せなことではないだろうか。

       ○

 世界は、ふとした切っ掛けで新天地がひらかれる。奄美大島行の航空券を買えば、島の熱い砂浜で天の河にひたれる。日も明けやらぬころ円覚寺をたずねれば、大方丈で座禅が組める。葛飾区の定食屋におもむけば、女将さんの波瀾万丈な人生潭じんせいたんを聴くことができる。外国人とオンラインチャットを交わせば、たがいの異文化に目をひらかせられる。
 いつでも、どこでも、わたしたちは切っ掛けをたぐり寄せられる。たぐり寄せれば寄せるほど、世界は虹いろにうつろう渦として天高く回転していってしまうだろう。
 二〇二一年八月下旬、わたしは曇り空の下で山手線を待っていた。虫が鳴いている。空気が秋に流れている。
 わたしは秋葉原駅に着くと、電気街改札を抜けていく人びとをながめた。この人たちが今の秋葉原をつくってゆくのだ、すでに秋葉原にいる人たちと混ざりあって多彩にひびきあってゆくのだ、顔を明るませて、人びとがこれから何をするつもりなのかと思いやっていた。
 そんな有象無象の人たちの中に、友だちがすくりと立っていた。遠くで手を振りあった。彼は足先になるにつれて生地がゆったりと膨らむパンタロンをはいていた。わたしは水いろの短パンにサンダルであった。
 会うと何となく笑いあった。さよならだけが人生の世の中で、また会うことができた喜びなのかもしれない。
「よ、元気?」
「最近、高校生とばっかり関わってるかな」
「おー、コーチング?」
「そうそう」
「いいじゃん、こっちはここんところぼちぼちだわ」
 わたしはあくびを噛み殺した。過労のせいで眠いのである。わたしたちは陽の注いだ道へと何となく歩きだした。
「メイドカフェ、行ったことある?」
「ないなあ」
「おれもないんだ」
「せっかくだし、いこうぜ」
「よし、いこうか」
 わたしたちは何をするのか流れで決めていく関係だった。わたしは久しぶりに友だちとの空気感に浸りながら、気分の流れに乗っていた。してみるに、心が大地をはなれる気球のように浮きあがっていて、視界に光りがわきあがるようにおもわれた。
「日常とはちがう世界観に浸かりたいんだよね。文化に浸かりたいというか」
「わかるなあ。今日はなんだかとくに浸かりたい気分だ。このごろ、日常に心を喰われてんのさ! つまんない仕事が降って来てさ、時間があぶくのように流れちまってる。このやり切れない日常が価値を持つとしたら、非日常にとっぷりと浸かった時だけだな」
「そういうもん?」
「そうさ、非日常に浸かりすぎたとき、日常が恋しくなるのさ。たとえば、家が津波に呑まれたとしたら、家のリビングに吊ってあった電燈が、記憶の底でとうとい光りを灯すさ。もしくは、富士山が噴火して空が灰いろになったら、青い晴れ間が神秘的にみえるだろうさ。そういう日常ではない体験のおかげで、日常のよさが引き立つわけなのさ」
「なるほどね。でも、メイドカフェにハマっちゃったら、メイドのいない日常がつまんなく映りそうだけどね」
「ははーん、それ、盲点だったわ」
 わたしたちは笑いあった。友だちは道端のビルに立ち止まって、秋の日陰にもたれはじめた。ポケットからスマホを取りだして、メイドカフェの検索を始めた。
「よさげなの見つかりそうか?」
「さっきも見てたんだけど、何個か候補があるんだよね」
 わたしは懐手ふところでしながら、道を支配する人の流れをながめていた。メイドカフェに舵を切って流れてゆく人間を認めると首をすくめた。彼ら彼女らは日常にやれ切れない攻撃を受けて疲れ切った顔をしている。まるで道のない砂漠を重たい荷物を積まされて歩かされてきたラクダのようだ。ラクダが砂漠の冷たい古井戸の水を、切羽詰まった顔で飲みこむように、その人間たちはメイドカフェの甘ったるい空気を苦しい顔で吸わざるを得ないのだ。
「ここ評価高いんだよね」
「おお、いいんじゃん?」
「いや、でもやっぱ、びみょうかも。写真見る限り、雰囲気がだめそうだな」
「あらあら」
「なんかめんどくさいな。道ばたのメイドに聞いてみるか」
 友だちは、気まぐれである。他人の評価を調べたとは言え、その評価にこだわることもない。友だちは、自由に、人間に話しかけることができる。人間と人間のあいだにある壁を、かるがるとすりぬける術を知っている。それで人間から本音をすらすらと引きだしてしまう。人間関係の軽業師なのである。
 車道沿いに店の看板を掲げたメイドが一人立っている。道ゆく人の顔を覗きこもうと必死になっているメイドもいるが、そのメイドは看板を掲げたまま声を出して宣伝しているのみである。
 友だちはそのメイドの前までまっすぐに歩いて行くと、メイドカフェに行きたいと思ってるんですけど、とメイドのひとみをまじまじと見た。メイドはマスクの上にひらかれた目を弓形ゆみなりなみずうみのようにうるませた。そのメイドは寸分もたじろがなかった。今日は地下アイドルのライブがあるから、アイドルに会えるかもしれないけど、どうですか。メイドは強気に自分の店をすすめていた。わたしたちは地下アイドルの存在も気になったばかりか、このメイドの真摯しんしな目に、職業的なスマイルではなく、この子本来の誠実さを感じていた。この店はよいかもしれないと首肯しゅこうしあった。
 なんでメイドカフェ行こうと思われたんですか。メイドはわたしたちをカフェへと連れ添いながら、こちらに振り向いて尋ねた。気まぐれですね。友達が答えた。気まぐれですか。メイドは純粋に笑っていた。
 エレベーターの前まで来ると八階に上がるように伝えられた。そのメイドと手を振りあうと遊園地のジェットコースターに乗る前の、スタッフとの別れの感じが思い起こされた。
 お客さまが入国でーす! 入店したとき、メイド中にこのかけ声がひびきわたった。店内にはYOASOBIだの、ずとまよだの、二〇二一年に流行した夜系の音楽が流れている。会計を手伝っていたメイドにそれとなく「入国って?」とたずねてみると、「夢の国に入ったでしょ?」と屈託なく返された。
 店内には十数人のメイドが背を張って歩いている。店の奥にはステージがあって、お客さんと地下アイドルがチェキを撮り合っていた。アイドルのライブはすでに終わっているようだ。
 わたしたちはテーブルに座ってあたりを見回しつづけた。それから向かい合って笑いあった。意味のない笑いである。見つめ合いながら歯茎をさらして笑いつづけた。メイドカフェという新世界にどのように接せればいいかまるで分からず、照れくさく笑うしかなかったのである。
 メイドが汗をかいた抹茶ラテを置いた。唐突に「美味しくなあれ萌え萌えキュン」と抹茶ラテに向かってハートを描きながら掛け声をすることになったが、わたしたちは耳を硬く紅らめて恥ずかしげに笑った。わたしは不器用であるから、ますます恥ずかしくなった。どうやって空中にハートを描いたらよいかてんで分からないのである。「美味しくなあれ萌え萌えキュン!」人差し指をおそるおそる下から上に膨らまして、ひどく不恰好なハートを描いてみせると、そのメイドは「そっちから描くひと初めて見た!」とツボにハマったのか身をのけぞって大爆笑していた。
「ね、ね、もう一回やってみて」
 メイドはわたしの目を覗きこんでいる。わたしは人差し指をまたもやおそるおそる下から上へと膨らまして、ひょうたんみたいなハートを生みだすと、メイドは全身を使って燦然さんぜんと笑った。
 そのメイドはるしあという名前だったが、るしあはひとみにりんとした光りをもっていた。
 るしあは急にマイクを持ってくると「みなさん、ちゅーもくっ!」と店内の視線をわたしたちに十二分に集めさせた。るしあは視線を浴びながら笑みをたたえる。「おかえりなさいませ、ご主人さまっ!」と「おかえりなさいませ」の後で顔をやや傾けて、「ご主人さまっ!」と目の光りを散らした。わたしたちは若干消えもいりたくなりながら「ただいま」と声を張ってるしあに笑いかけた。
 それから、メイドたちが巡回して話しかけに来てくれた。とりわけ、るしあとは何度も話すことになった。るしあは研修中らしかった。メイドの世界でもヒエラルキーがあるらしく、メイド歴によって制服のランクが変わるそうだ。るしあは今日で二週間の研修を終えて、正制服を着られるとガッツポーズをしていた。わたしたちは思いもよらない世界がひらけたような気分で、るしあのかがやくひとみが何を眺めているか考えていた。
 メイドカフェで働く人たちは、自分なんぞ遠く及ばない生命力を存分に奮っていた。
 秋葉原のメイドという言葉にただよう、サービス的な陰うつさは、このメイドカフェにはほとんど見られなかった。
 わたしたちはカフェの世界観に浸かりながら、何のてらいもなく笑いあった。時折、るしあではない、通りすがりのメイドが笑いに来た。
 ただ、どんなメイドもるしあの息がかかっていて、わたしがハートを下から描く不器用なやつとして店内に広められていた。ハートの形をいじられるたび、私はるしあの目の光りを思い出した。
 お客様が出国でーす! メイドの声が店内にひびきわたった。わたしたちは一時間で去ることに決めたのである。店を去ろうとすると、あのるしあがわたしたちのそばまで寄ってきてくれた。わたしは念入りにるしあと手を振りあった。彼女にはもう会えないんだという観念が虚しく突き上げてきた。
「あのハートの描き方、一生忘れないかもなあ」
 るしあは乾いた声で笑いながら、誰に言うのでもなくつぶやいていた。
 お互いに会うことはないということが確信されていた。わたしは、るしあを愛したいわけでも、恋がしたいわけでもなかった。るしあもきっとそうだろう。しかし、わたしは彼女の生きざまを目撃できない世界へと旅立つことが別れであるということに感づいて、言い知れない哀しみに身を裂かれるような思いだった。
 わたしは彼女の目をしばらく見つめてから、店の外へと体を向けた。
 るしあからどんどんと力強く遠ざかっていった。



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