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602/1096【往復書簡】備わるものに無駄はなし

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で602日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

602日目、今日は600日目台が始まって二日目で、数字のせいで?勝手に初心に帰ってしまっている!2日目の始めたてホヤホヤの気分なのだ。

こうして、累計の数字が変わるだけで心機一転新たな気持になれるだなんて思っていなかったから、ちょっと得した気持ちになってしまった。

600日が過ぎると、まだ遠いところにある気がするけれど、終わりへのさみしさがちびっとだけ感じられる。なにかを続けてみないと知ることのできない感覚というものがあるのだなあ・・・しみじみと、始めてみてよかったと思う。この「よかった・・」のバトンを、昨日の壇珠さんから明日の壇珠さんに繋ぐのは、今日の自分だ。

今日もまた静かな一歩を静かに歩もう!

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上の圭吾さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!こちらイタリアは、段階を経ながら少しずつ外出禁止が緩和されていっています。しかし、コロナ前から家にばかりいるわたしは、緩和されても家にいて、こうしてパソコンにばかり向かっております。
こちらも今外はとても気持ちが良いです。この季節の陽気を表すのに、よく我々は「ときおり初夏の爽やな風が舞う」というように表現したりします。が、今は外には初夏の感じしかありません。初夏だから当然なのですが、どこをどう感じても初夏の感じ100%です。逆に、どんなときだってこれが100%、初夏の陽気なのだと思います。

こういうことを思うときわたしは、「自分探しなどしなくても、人は生まれてから死ぬまで常に自分100%なのだ」ということを思い出してしまいます。わたしはなにを思うにも、反対に考えてみるとこうなのではないか?とか、まっさらに考え直してみたらこうなのではないか?などとひねくれて考えてみたり逆立ちして考えてみることをやめられません。もしやまさか自分はひねくれ者なのでしょうか。

荒くれ者だと思っていたのに、ここにひねくれ者も加わるとなると、なんだか自分は面倒くさいやつだなあと思います。すると外の爽やかな初夏100%の風が、自分にはもったいないくらいに素晴らしいものに思えます。荒くれでひねくれのわたしにも夏は来てくれると思うと、この世はほんとうに平等で良いところだなと思います。

私は餃子が大好きなものですから、一人暮らし開始当初は毎日ドン・キホーテで買った激安の冷凍餃子を食べ続けました。序盤は「幸せだ…幸せだ…」と貪り食っていたのですが、四月後半にはなんだか飽き始めてしまい、五月以降は餃子を見るのも嫌になりました。大好きだったものが、嫌いなものになってしまったのです!!私にはこういうちょっと極端な部分があるのですが、壇珠さんにも似たようなご体験はありますか??

この部分を拝読して、愛らしくて笑いました。行き過ぎは薬さえも毒になるのでしたね。わたしも超絶に極端なところがあります。わたしなんぞは自分のそれを「少々病的なのでは」と思い、その己の思いに傷つけられながら生きてきたクチです。カメムシが、自分の臭いで失神するのと似ています。

好きなものができると、すぐに己の限界までハマってしまい、そのあとで冷めてどうでも良くなってしまうことが、これまでの人生に何度もありました。自分の人生自体がそのプロセスの反復のみで構成されていると言っても過言ではなく、これが常々わたしの悩みのタネでした。

が、わたくしめはもうそれを、血液型のせいにすることにしました。我々は両者ともO型ですから、その傾向なのではないかと勝手に思っております。これまでにハマってきた、たとえば習慣や人物や作業などのさまざまなものたちを思い起こすと、なぜか欧陽菲菲の歌うLOVE IS OVERが脳内再生され、それらのものたちに向かって「わたしの上を通り過ぎていった男たち」的な愛を感じられます。一度愛したものは、結果がどうなろうとも良い思い出となっているのかもしれません。たとえ、毒となったものでも・・・!!

はじめてイタリアでお会いした時、壇珠さんが「坂爪さんの魅力は、欠落にあると思います」とおっしゃってくださったことを、あれから何度も思い出しています。あの言葉を聞いた時、私はなんだかとっても嬉しくなってしまいました。あの瞬間の喜びは「見てほしいと思うところを、実際に見てもらえている」喜びだった、などと書くと大変大袈裟ではありますが、これまでの人生が大きく肯定されたような喜びがありました。

わたしも覚えています!!圭吾さんのそんなところに、多くの人が魅力を感じていることだろうと思います。欠落と言うと語弊があるのですが、わたしは人には誰しも独りでは埋まらないところがあるのだと思います。それはなにかで誤魔化してあまり感じずにいることが可能なことだと思いますが、圭吾さんはそれを誤魔化したままではいられない人のように思っております。

わたしは、我々人間を、大変弱くて脆くて儚いものだと思うのが好きです。世では「弱い」ということを「良くない」と考えるのが常識のようになっていますが、わたしは弱いのがデフォルトで当たり前で、すべての人に平等に備わったものだと思うのが好きです。そう思うと、とても優しい気持ちになります。

みなそれでも生きていて、強くあったり楽しくあったり希望をもったりしていると思うと胸熱です。元気で健全健康なのが普通で、それで当たり前だなんてとても思えないのです。それを保ててこそ大人だとかいうのも、非常に恐ろしい考え方だと思います。元気で健康で健全で当然!!それを毎日毎日保ってこそやっと当たり前で一人前の大人!!できないお前は恥だ、未熟だ、クズだ!!というのは、ずいぶんと自然な人間の姿から離れた理想像を追う思想という感じがします。まるで恐怖政治のようで、盲目的で恐ろしく厳しいような感じがします。

わたしは、大多数の人が成長する間になにかしら傷を負うものだと思います。それから、気持ちの乗らない日や不調な日があるものだと思います。むしろ、年間を通しても、そんな日のほうが多いものではないでしょうか。それが我々のリアルな姿のように思います。それはなにもおかしくなくて、そういう日が通常モードで、当然だという社会になったらいいなと夢見たりします。「それを当然だとしてしまうと、サボるやつはどこまでもサボって仕事をしなくなるからダメだ!」と怒られそうですが、そこにムチを打って仕事をしなければ成り立たない社会の方に無理がある気がします。

それでもやりたいことがある人は楽しく仕事をすると思うし、それができる人は仕事を仕事だとも思わないと思うんです。互いに傷を負った脆い生物同士だということを前提に、そこを互いに当然のこととして思いやり合いながら、やりたい仕事をやれる社会だったらどれほど息がしやすいだろうと思ったりします。我が愛する祖国の悲しい自殺者が、減る気がしてなりません。

なんで女性の壇珠さんにこれほどまで男性心理がわかるのか謎です!!おっしゃる通り、自分自身、単体で存在しているときはまったくのからっぽです。私にはなんにもありません。ただ、時折、そこに女性からの希望がポンと投げ込まれた時に「おっしゃやることができたぜ」となります。

わたしはなのですが、結婚生活を通してものすごくたくさんのことを学ばせてもらえました。それがなかったら、自分などはほんとうに人の気持ちのわからないやつだったろうと思ったりします。男性がさみしさを持つことや、誰かを喜ばせることに純粋に生き甲斐を感じることなどを、目の当たりにできなかったと思います。からっぽの虚無感をもつことができるのが、愛しすぎてやばいです。結婚生活を通して、男性がこんなにも脆く美しく強い生物だということに驚愕しました。わたしは男性を心の底から尊敬しています。同種の生物であることに誇りを感じます。なぜか宇宙の別の知的生命体に対し、ほらあ!!俺たちこんななんだぜ!!すげえだろ!!という気持ちになってしまいます。

そうなってから、自分自身も同じ生物だということにしばらくもったいないような、違和感と言えるほどソワソワしていた時期がありました。すると驚くことに、それとちょうど対になっている女、これまたすげえんだけど!!と思いました。それらが合わさって、人類ってマジで、超絶すごい生物だかんな!!ってあらま、自分もじゃない!いやァ参ったな~(照)みたいな感覚になってしまいました。そのため今も、やばい!!自分、今人類真っ最中だ!!マジ貴重だ!!どうしよどうしよ!!という気持ちがどこかにあって、誰彼構わず、すごくね?俺すごくね?君もすごくね?俺らすごすぎね?と思っているフシがあります!!

私はまだ結婚をしたことがないのですが、一回くらいはしてみたいという呑気な思いがあります。私は常に「またひとりになるのか」という軋轢(?)を抱えています。誰かと生きたいと願う自分と、誰かとなんて生きられるわけがないと思う自分との格闘です。人と生きたいと夢見て破れ、またひとりになる。それの繰り返しであります。いやあ、これには非常にゾクゾクするものがあります・・・自分が自分の未来に期待をします・・・どうなるのだろうマイライフ・・・

楽しみですよね!!この部分を読ませていただき、自分が結婚していることについて、それは誰かと生きているのか、それぞれが別個に生きているのかと聞かれたら、どちらでもあるような気がしました。結婚生活が、わたしにとっては同棲生活という感じがしています。同じ屋根の下に住んでいると、独りではない感じがして、そうすると逆に人はどこまでいっても独りであることが浮き彫りになるように思えたりしています。死ぬときはそれぞれが寿命で逝くし、別々に動き、別々に考え、別々に思い、相手のことは永遠にわかることがないのを、肌身に感じます。肉体が物理的に融合して誰かと一心同体になったりはできないことを、ひしひしと感じます。

それでも、人は近くにいるものに愛着を持つのか、家族に対して「お前らのためなら俺はいつでも喜んで死ぬぜ」という気持ちになれたりしちゃって、結局それを引き金にして、それは家族に対してだけでなくても誰に対しても持っている感覚だったりするのだな!と思えたりしちゃって、自分にもこんな面が?!と驚いたりしています。

わたしはそれを知らなかったので、結婚したことによるあらゆる大変さを差し引いても、これを味わうことができてよかったなと思っています。圭吾さんがもしご結婚されることがあったら、そのときには圭吾さんが結婚を通してどんな感じを持つのかを知りたい!という気持ちになる気がします!!

でもここで、ものすごいバンジーを飛んで自分の感覚をお伝えしてみますが、キモかったらほんとうに申し訳ありません!!わたしは実際の婚姻届を提出することとはまた別に、互いに切磋琢磨する形で関わりを持った男性というのはある意味で互いのなにかがどこかが結婚したようなものだと思ってしまいます。仕事で互いを高めあった者同士や、思い出すだけでいつでも前向きになったり優しくなったりできる者同士や、関わり合うことで自分のなにかを発揮しようと思える者同士は、書類上では結婚していなくても、互いのどこかが番(つがい)になっているのだと思うんです。わたしは誠に勝手に、圭吾さんは自分にとってそんな存在だと思っています。わたしは圭吾さんから、自分は自分のキッパリとしたところを捨てずに生きようという感覚を引き出してもらっている気がします。が、結婚や番という喩えがキモかったら本当に申し訳ありません。どうぞお気になさらずに!!

私は三人兄弟の末っ子なのですが、こどもを三人産んで育てるということは、とんでもない偉業だなと実家を離れて感じました。普通の人とは、普通の顔をしながら、とんでもないことをやっている人のことだと思いました。世のお母さん方にも思うのですが、出産という体験は半端ない体験なのに、みんなもやっていることだからとケロッとしている女性を見たときに、ああ、絶対に敵わないなあって思います。

わたしもまったく同じように、自分が出産をしたときに、世のお母さんたちをド尊敬しすぎて神だと思いました。まさか、人類の数だけこれが行われてきたのだと思うと、嘘だ・・嘘だ・・ひとりひとりのためにこんなことが起こっていたなんて、とてもじゃないが信じられない・・・と思い、お、お、お、お母さんたちぃいいいいい!!!!!と思いました。人類史上すべての女たちよーーーーーーー!!!と思い、バラバラと涙が流れてきました。人間社会にまことしやかに隠されている本当の面を、現実の膜をベロリとめくって見せられた気がしました。人類は動物でした。死と排泄と出産と性とが隠された社会での普段の生活をしているだけでは届くことのない、ド動物だという事実に突き当たる経験をして、ここまでかよ!!と思いました。

それを経験しながら、世のお母さんたちは、圭吾さんのおっしゃるように、シラッとして暮らしていますよね。どのお母さんたちも、小さな女の子だったのに、ある日自分の体内でパンパンにでかくなった生命体が自分をズタズタにして体外に出ていくことに耐え抜いて、その後も何事もなかったかのように暮らしています。そうして未来を紡いだことを、どんなヒーローの偉業より、どんなギネス記録より、スゴいことだという気がします。自分がそれを通過したことはどこか夢のような嘘のようなことに思えますが、兎にも角にも世のお母さんたちをすごいと思ってしまいます。

油断をしているとすぐに私は調子に乗ります。傲慢になり、周囲の人々を粗雑に扱い、自分を正当化するために言い訳を重ねたりします。そんな時に、自分を真ん中に引き戻してくれるものは、素朴な人々の誠実さでした。私は、それをゴミ掃除のおばちゃんに強く感じます。自分の持ち場を守り、与えられた仕事をせっせとこなす誠実さに、全然うまく言えないのですが「俺はちっぽけな男だな」という自己反省を、促してくれます。

わたしもすぐに傲慢化してしまいます、手が焼けます!!そして同じように、そんな自分を真心に引き戻してくれるのは、母の存在です。母は強く言い返したり、きつい言葉を使ったり、毎日のルーティンワークをサボったりすることなく、いつどんな時も淡々と素朴で、真面目です。目立たず、外れず、静かなままで身を尽くしています。それを見ていると、とても敵わないといつも思います。それによって雑念が晴れて、落ち着くことができます。

これまでは非凡であることがカッコよかった世の中でしたが、わたしはこれから万人が唯一の存在であるという意味でどうしたって非凡であるということがもっと広まっていったら面白いのにな、と勝手に思っています。
これまでは我々人類が、個人に非凡であるところを見出して、そこを発掘し育て、外に出すことにばかり夢中になってきたように思います。でも、そればかりを良しとする考え方を持っていると、わたしなんぞはついつい自分に「みんなとは違う」という要素を見出そうとばかりしてしまいます。そして、それ以外の要素を不要なものとして見ないようにしてしまうのです。

でも、自分に備わっていた素朴さや真面目さ、地味なところや良心などを蔑ろにしてしまうのはさみしいことだと思います。それらは無駄に備わったものなどではなくて、自分が長所だと思っているところなどよりもずっと大切で重要なことだったのだろうと思ったりしています。そして、自分にもそんなところがあるのってほっこり嬉しいんです。意外性があって!!

ひどく抽象的な話になってしまって恐縮なのですが、ここ数日『生命(いのち)の水』と『光の柱』という単語を頻繁に思い浮かべる自分がいます。

なんだかひどく怪しくて奇妙なことを書いてしまいますが、ちょっとシンクロを感じたので書かせてください!!わたしは最近、五行思想といって、古代中国に端を発する自然哲学の思想にチラッと触れる機会がありました。万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説なのだそうです。木は燃えて火を発生させ、火が燃えたあとには灰(=土)が生じ、その土からは鉱物(金)が産出し、金は腐食して水に帰り、水は木を生長させる、と考えるものだそうで、これを知ってから自然と、自分がそれらのものになってみるというおかしな精神統一をしてしまっています。

なんだか文章にするとやけに変人風なのですが、自分が木になってみたり、水になってみたりするというわけです。勝手にやっているので、なにか良い結果を招くと言えるものではないのですが、とても面白いのです。自分が木とはこういうものだとしている信念や、自分がこれぞ水だとしている信念を、体感にしてみるといったほうがいいかもしれません。雑念が飛び、深く集中しているのがわかります。これをやっていて、人間はそれらのどれにでもなれるということを感じました。自分は水であり、火であり、木であり、土であり金でもあって、この世を構成する元素のすべてだと感じられます。

そんなことをしていた背景があったためか、命の水、光の柱という言葉を読んでまっさきに思ったのは、「自分を水だと感じること、自分を光だと感じること」は、「自分が一自然物であり、自然と片時も一体でないときはなく、自分は自然の大きな循環の一部だと思い出すこと」につながるのではないか、ということでした。それは深い深い安心感に通ずることではないかと思います。命の水、光の柱、どちらも美しい言葉ですね。

ちなみに、水になっているときにどうしても海にだけはなれないという事がありました。なぜなのだろう?!と思っていたら、海はすでに水ではなく、なにか生命のソースのようなごちゃまぜのものだったのだと気がついたりして、これはまだまだ探求してみると面白そうだなと思っています!(わたしは正気です)

誰かが喜ぶ姿を見ることは、自分にとっても喜びであります。誰かのためとか、自分のためとか、そこに区別はないのかもしれません。自分がやっていることは、自分『に』やっていることなのだなあと、最近はつくづく感じる日々です。自分を含めた「人間のため」に、今日も生きていきたいと思います!!

生きるということを考えてみると、そのために我らはいろいろな要素と関わり合いますよね。食べ物だったり、他者だったり、お金だったり、空気だったり、プラスチックだったり、自分の気持ちだったり、貝殻だったりヘッドホンだったり。それらの要素を、どこまで並列平等に見られるかという挑戦をしたくなってしまう自分がいるのですが、圭吾さんはそんな感覚になることはありますか?!

我々は個々にそれぞれが、食べ物は重要、お金を稼ぐのは汚いこと、空気なんてあって当たり前、プラスチックは地球に悪い、などなどのさまざまな評価やレッテルをあらゆるものに対して持っているものですが、わたしはその自分のもつ、あるいは一般的な偏見に翻弄されずに万物をまっすぐに平等に見てみたい気がして、そこに挑戦したくなる自分がいつでもいます。その評価やジャッジに自動反応するのが、なんだか悔しいのです。

わたしはまず一旦、たとえば「プラスチック」であれば、「点滴のチューブとなって人の命を助けているヒーロー」だと思ってみたりします。「お金を収集して自分も恩恵に預かり、また旅に出させること」を、「ミツバチを集めて蜜をいただきながら、またハチたちを野に放つこと」だとして見たりするのが好きです。そのあとに、ああ、どんな味付けもまったくもって自分の勝手でしかないのだなと思うことが、やたらと気分が晴れるような感じがするのです。

わたしたちが世界を眺めるとき、それは自分の心の中に頭を突っ込んで観てみているのと同じですね!それに対する驚きと不思議さをいつまでも失わないでいたいと思います。そうするとこの世にいるのはファンタジックで面白くて、とてつもなく貴重で去るのがえらく惜しまれますが、それでも、散るからといって咲くのをサボる花がないように、死ぬとわかっても惜しみながら生きれば良いではないか!と思います!!今日もこちらにたくさんの思いを綴ることができて幸せです。今日もまた、ありがとうございます!!

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