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1022/1096 「傷ついている」ことをリスペクトする

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1022日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1022日目。自分のしつこさに自分で呆れるが、いまだ泣いて過ごしている。無限列車の傷心と感動と、あとからあとから湧いてくる感傷のためだ。と思う。もうもはや、なぜ泣いているのかもよくわからなくなってくる。

でも、ただ、誰かの役に立ちたい思いがどうしようもなく湧いてきて、抗うことができない。なんだろうなあこれは。鬼滅の刃がこんなにも、欧州でもアジアでもアメリカでも、それこそ世界中で愛されたことに、感動を覚えずにいられない。ウウウ地球人よ。。。

ハァ、そしてこうして書いていても、泣き崩れてしまって画面が見られないのだ。デスクが落ちてくる涙で雨が降ったみたいになっている。ううむ…自分ちょっとだけ壊れちゃったかな~とも思うけれども、食べられるし眠られるからまだ大丈夫。

今日も心を込めて書こう!!よっしゃあー!!

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人には、慰められたくないときがあるものですね。

人はきっと、本当に辛いときには、慰めてほしくなんかないのだと思います。これを読んでいるあなたはいかがですか。わたしは、そうです。ひどくつらいときには、誰にも軽々しく「大丈夫だってば」などと言ってほしくないし、「そのうちいい思い出になりますよ」だとか、「存分に味わいきったら抜けますね~」のように言われても、嬉しくないと感じます。

「辛いのなら助けを求めてほしかった」というのは周囲の者の勝手だと思うのです。とても傷ついている人というのは、周囲の者の「慰めたい」だとか「打ち明けてほしい」だとかいう要求が、負担にすらなります。そしてそれが、そう言って要求するその本人の安心のためなのだとわかるものです。誰かが傷つく経験を越えようとしているとても大切なときなのに、それを見ているのが辛いから早く早く回復させようとする。それをわたしは、慰めを押し付ける側の弱さだと思っています。

傷ついている人に、その傷の説明義務を負わせてはなりません。心に余裕のないものにとっては、それについての説明をし、周囲に頭を下げて助けを求め、アドバイスに感謝し、そのアドバイスを実践し、おかげさまで助かりましたとお礼を言い、周囲の者を満足させ、彼らの心の穴を埋めてやる…自分のことでいっぱいなときというのは、このプロセスのひとつひとつをこなすことが苦しく、億劫なのですね。本当に傷ついている人には、周囲のものを気遣う余裕はありません。

誰しも、当事者にしかわからない気持ちを「大丈夫ですよ」などとインスタントに言われたくないのですよね。だから、本当に傷ついている人は、『傷ついた人を慰めることで「人の役に立った」という実感を得て満足したがっている人』には、触れたくないのです。こちらの傷は、あんたたちの心の穴に投げる餌じゃないんだぞと思うものです。

わたしに限って言えば、あんまり傷ついているときには、それへのヒーリングは無用です。こちらを癒やしたい人、救いたい人はお相手をするのが大変なのです。放っておいて欲しい。傷ついているあいだ、それを尊重していてほしい。もしそれが大変で、元気ハツラツな人だけを見ていたければ他所に行ってほしい。傷ついていることを、おかしなこと、すぐに修正の必要なこととして扱わずにいられる人だけが、そばにいてほしい。周囲がそれくらい強いとき、傷ついた人も強くなれるのです。

傷ついている人を、「そのままにしておいてやらなくてはならない」とわかる人はなかなかいません。大抵の人は、なんとかしたくなってしまうものです。それはその人の悪意なのではなくて、優しさに似た、弱さなのですね。

辛い人を見ると、「なんとか助けてあげたい、そのままのあなたを見ていられないから」と言う人がいますが、それは「わたしがあなたの今の状態を見ているのがきついから、自分のレスキューに乗っかって回復して、さっさと見ていられる状態になってくれ」と言っていることになってしまいます。

それはつまるところ、助けようとしている人が傷ついている人に向かって「わたしを助けて」と言っていることになるのだとわたしは思います。さらにはその助けようとする側の人には悪気がないため、周囲も「助けようとしている側はエラい」「人の傷を癒そうとするのは愛」「この愛に甘えて助けてもらうべき」「この愛を拒否するなんてあり得ない」「愛にそっぽを向くだなんて、傷ついているからってわがまますぎ」「助けようとした人のおかげで傷ついた人が癒やされましたとさ、めでたしめでたし、というのがハッピーエンド」という空気を流してしまいます。

すると、傷ついた人は頑張ってその『癒やしてあげます要求』に応えようとするのです。相手や周囲の期待通りに、癒やされたというふりをしてしまいます。「親切にありがとう、優しいですね、おかげで癒やされました、元気になりました」と褒めたり感謝したりしなくてはならないと考えてしまいます。そうしないと不快な思いをさせるのではないかと心配してしまうのですね。そしてさらにはそのあと、元気になったふりまで続けなくてはならなくなります。これは、とても大変なこと。もとの傷だけでなく、そこにさらなる負荷がかかってきます。

人は、傷ついたときに「誰にも話したくない」と思うことがあるものです。その理由が実は「他者の慰めによってさらに大変になりたくないから」ということが、本当にあるものなのですね。そうしてひとりで静かにいるのが最良であることも、とても多いのです。

傷ついたときに、その傷の限界を見ることが大いに助けになることがあります。それで一気に回復に向かうことがあります。悲しみだけでなく怒りでも同じで、限度を知ってしまうと、冷めてしまうのですね。たとえば、自分が嫌味を言われてグサッときてイライラして怒っているときに、友達に「別に大したことないし、怒ることじゃないんじゃない?大丈夫大丈夫、さっさと忘れちゃおう。心を広く持って許すのが一番よ。元気だしてホラ!」などと下手に慰められても「ハァ?わかったような口きくんじゃねえや、フン」と思うのが人情です(そしてそうとは言えない…)。なぜかというと、こちらの感じていることを否定されたから。

けれどもたとえば友達に話したときに、慰めるどころか「アア?なんだそれ!クソみてえな嫌味言いやがって、怒って当然だろ!!あンのアマ、許さねえ!!今からそいつを殴りにいこうか~!!(チャゲアス参照)ぐりゃあああああ」などと顔を真っ赤にして言われたら、わたしたちはつい「いや、ごめん、ありがと。そこまでではないから大丈夫よw」と思ってしまうものなのですね。そうやって、自ら大したことない、そこまでではない、と思ってしまえると、その嫌味事件による怒りの限界値が見えてしまいます。すると、なんだかバカバカしくなって、可笑しくなってくることさえあります。なにかの限界が見えたとき、人はそれについて、それまでよりも脅威に感じなくなるものです。

上の友達の喩えのように、誰かがこちらの感覚にこちらの限界以上に共感してくれたのを見ることで、間接的に自分の限界がわかることもあります。これによって救われることもあります。他にも、ただじっと黙ってそばにいて、こちらがゆっくりと自分のペースで限界に達するのを待ってくれるのがありがたいこともありますね。

あるいは、辛いと思っているのは少しもおかしくなんかない、どこまで限界を追ってもいいと信頼してくれる人にも助けられることがあります。

これらに共通しているのは、傷ついている人に変わるべきだという考えを押し付けていないことです。

傷ついている人が元気になったらもちろん嬉しいけれど、でもそれは本人にしかできないことです。それから、それには本人のベストのタイミングやペースがあります。そのタイミングは本人にもわからないものなので、周りにわかるこっちゃありませんよね。さらに、言葉にしてしまうととても語弊があるので危なっかしいのですが、その人は傷つく経験から得ているものや学んでいることがあるものなので、傷ついたことが完全に無駄で愚かなことだと扱うべきではないのだとも言えます。だから、勝手にやめさせようとするのは余計なお世話なのですね。

傷ついているという経験こそ、リスペクトを持って尊重することではないでしょうか。傷ついていることを尊重するというのは、解釈によってはとても冷たいことのように見えてしまいますが、「慰め」の押し売りをしないのは、真の優しさです。

誰かが傷ついてじっと休んでいるとき、「落ち込んでいても無駄」と雑に片付けずに、こういうときこそ傷ごと丸々をリスペクトして、他の傷からの盾になってあげられるようでいたいと思います。そうあれるように、このことを一生磨いていきたいと思います。

というわけで今日は、慰めることについての、わたしの好きな観点のシェアでございました。傷ついている人よ、どうか、傷つくなんて弱いだとか、傷つくなんてまだまだだとか、傷つくほうが悪いと思わないでくださいね。それはたしかに勇敢な経験なのです。

それではまた、明日ね。

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