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887/1096 自分にとって「仕事の大変さ」や「自己評価」と幸福感とは関係がないという話

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で887日。

※この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。

887日目。今朝、自分は”常になにかに恋をしている人”のうちのひとりなのだということに、突然気がついた。そういうフレーズを見かけても、「や、そんな人いたらおかしいから」と思っていたのに、自分自分!!自分のことそれ!!わー!

考えてもみれば、わたしは途切れることなくなにかに恋をしている。なにか、夢中になったり、うっとりしたり、追いかけたり、夢心地になる対象をもたない時がない。いつも複数のなにかに恋している状態で、すぐに飽きて新しものに心を移しつつも、それと並行して長い間変わらないものもある。

この、書くという行為はわたしにとって恋愛の対象だ。いつも頭から離れることがなく、エキサイティングでフレッシュで、追っても掴んだと言えることはなく、どれだけ交わっても飽きることがない。

だから毎日の執筆も、ある意味ではデートみたいなものなのだと思う。

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今日は自分の好きな考えを箇条書きにさらっと書いてみようと思う。需要があることを願いつつ、好きなことを書くのは楽しいから、書こう!

○職を変える”だけ”で『仕事が辛い→仕事が楽しい』に変換しようとするのは無理なのだと思っている。仕事が辛いという人は、基本この世のなにを仕事にしても辛い。仕事、だと思うことをしないにかぎる。

○心持ちを変えること”のみ”で『仕事が辛い→仕事が楽しい』に変換しようとするのも無理があると思っている。仕事が辛いという人は、基本どんな心持ちでいようとも、仕事をすると辛くなる。仕事だと思うことを、しないにかぎる。

○ここは思いっきり反論を食らいそうだが、わたしは仕事は大変でも多少辛くてもいいと思っている。お金のために仕事をすればいいと思う。お金がもらえないのならやらないことを、仕事と呼ぶのだと思う。

わたしはたとえば個人セッションの仕事を、お金がもらえないのならひとつもやらない。これぞザ・仕事であって、だから興奮するし、楽しい。物々交換や等価交換には、交換の喜びがある。

たとえば、ゲームだったらお金がもらえなくてもやる。逆に、お金をもらってやりたいとは思わない。ちょうど性交と自慰の差だ。性交は「セッションであること」に、やる価値がある。自慰は「気ままであること」に、やる価値がある。好きな方法でお金とセッションをするのが仕事だ。

○「たとえ険悪になろうとも、はっきりものを言う」ということに価値をあまり見出していない。そして古い、と思う。もういいじゃんそんなの。よほど特殊な場合にしか、そんなものは役に立たないと思う。場を和ませる人のほうが遥かに好きだ。

たとえばレストランに行って、スタッフにあれこれと気に入らない点を物申したり、給仕以外の要求をどんどん投げて使おうとする人とは一緒にいて不快だ。いくらそのことを「わたしは思ったことは真っ直ぐに言うの」と言われても不快だ。一人でやってくれと思う。

自分だって人から、アンタの歯が汚い、可愛らしさが足りない、遅刻してくんな、などなどと欠点や要求をズケズケと言われたらたまらないでしょ。そこのスタッフに個人的に不満があるなら行かなきゃいいのよ。

○上に続くことで、その場を幸せに、美しく、気持ちよく、心地よくするための、にこやかな嘘、穏やかな嘘、心のこもった媚びは大歓迎だと思う。いいじゃんね。これができるって最高に素敵だよ地球人。

媚びることを、汚いことをしていると思わずに、帝王のように女王のように堂々と誇らしくやるべし。世渡りの上手い人が好きだ。媚びるのがめっちゃうまい、相手を絶対にいい気分にしてしまう、って褒められてしかるべきことだと思うけどな。可愛いし素晴らしい。

○自分を大したことのない、あまり価値のない人間だと思う。実際ほとんど生産性もなく、面白くもないし、美しくもなけりゃ能力も低い。自分はこの世に唯一の貴重な存在で、わたしっぽさで宇宙一だ。俺か、俺以外か。しかし、これは自分が両腕を広げて苦もなく受け入れている事実だが、自分は明らかにどうでもいいクズである。

こういうことと”幸福感”ってまったく関係のないことで、なんであんたは幸せなのかと言われても理由なんかないのだ。

わたしにとって、
「あなたはクズじゃない!あなたは素晴らしい!」
→「え!じゃあわたし、幸せ!!」
という関数が成り立っていない。

だから、
「あんたはクズだな、ひでえもんだわ」
→「ひどいわ!しくしく…わたしって不幸だわ…」
とはならない。

「お前ってクズだよな」
→「ですです。(そして関係なく幸せ)」
となっている。

自己評価と幸福感が結びつけるとエンタメ性が高いぶん楽しくなるが、同時にそれによってかなり苦しくもなりうる。どっちをとってもいいと思うけれどね。(わたしが自分をクズだと思うと言ったところで「そんなことないよ」と思うという反応が起こった人は、自己価値と幸福感を結びつける考え方を採用しているのだ)

○すべての人を尊敬する。どうしてかというと自分じゃないからだ。もう、自分には絶対に真似のできないことをしているのがすげえ。なんなら欠点すら尊敬の対象となる。だからと言って、その人の何もかもを評価するかと言ったら、それは別の話。

わたしの中では、ここも評価と結び付いていない。意外とさ、人類ってみんな揃って一緒にクズ、みたいなところあんじゃん(嫌われた…)。みんな違ってみんなクズ。その不完全の苦をデフォルトで背負っていることこそが、人類をやる醍醐味のひとつなのだとまっすぐに思う。

○他者に「特別だよ、価値があるよ」と思わせようとする人は、自分のこともそう思っていたい人だ。人は特別などでなくても、クズでも、大したことなんかなくても、それで気楽に生きていいと思う。評価されなくても楽しんじゃえばいいと思う。そんなのは実は幸福とは関係のないことだし、むしろ評価が低いのに楽しんでいるやつこそが無双である。そのズルさが無敵だ。

先生はクラスの子達に頑張って勉強を教えた。
たけお君は頑張って100点をとった。
しのちゃんはなにもせずに5点だった。

たけお「僕は嬉しいです、幸せです」
しの「わたしは嬉しくはないです、幸せです」
たけお「5点は幸せじゃないよ」
しの「5点だが幸せ」
先生「ダメじゃねそれ」
他の子たち「ズルくねそれ」
しの「ダメだしズルいが幸せ」

このうちの、たけおになるもよし、先生になるもよし、他の子たちになるもよしだと思う。が、明らかに無敵なのはしのだ。わたしは評価のゲームからさっさと抜けて、しのちゃんでいたい。

💫

なんだか今日は箇条書きだからサクサク書こうというマインドセットで書いたら、微妙に奇人の辛口投稿みたいになっている気が…!こんな自分は、会ってみると意外とどこにでもいそうな挙動不審気味のつまらない人です。それなのに地味に静かに心は泰平です。特技、幸せ。

というわけで今日は、自分にとって自然で好きな考えたちのシェアでございました。この記事で、どなたかの心とセッションできますように。

それではまた、明日ね!


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)