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575/1096 それは本当に「悪い」こと?

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で575日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

575日目、ここ数日、夫との会話にロックダウン解除後の週末になにをしようかという話が出るようになった。どうやら来月には解除されそうだ。

今は野や山や海に行きたいし、ゲーム店と家電店と美容院に行きたい。考えてみればロックダウン前となにも変わらない。嫌なのは、街に出たときに人との距離に注意を払わなくてはならないということ。これがストレスになりそうなので、自然の中に行く以外には、結局あまり家から出たいとも思わないのだ。

でも、毎日ブログを書いてばかりいる生活も、いつやめてもいいと思っていたいと思う。こだわりすぎないで、自分に遠慮なく毎日選びなおせるほうが気楽だ。今日書きたいからと言って、明日の自分を縛ってはならないな、と思う。自分からいつでも自由でいられるようにと、今日はそんな思いを感じながら書くといたしましょう~!

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わたしはイタリアに来てから、娘が通い始めた幼稚園で、娘の同級生の男の子のお母さんと知り合い、友達になった。彼女はイタリア人で、イタリア人男性と結婚して二人の男の子を生み育てているとても良い人だ。

彼女は事務職についていて、保険会社に勤める彼女の夫とともに庭付きの家を購入してローンを支払っていた。二人はその家の支払を済ませて、昨年さらに大きな家を購入して引っ越したばかり。そして、いつも家をきれいに保ち、食事の支度をして、子どもたちと遊び、夫婦仲を円滑に保っている。夫婦ともに、気さくな人柄でいつ会っても気取らない。地味ながらもとても親切で、真面目で健全なふたりである。

わたしは娘が幼稚園に通い始めてから小学校を卒業するまで、お迎えの時間に週に何度も彼女と顔を合わせていた。彼女はわたしを見つけるといつも喜んでくれて、わたしたちはしょっちゅうお喋りをした。

親のこと、それぞれの夫のこと、男性とのこと、子どものこと、子育てのこと、家事のこと。主婦同士が語り合いそうなことをたくさん話した。明るくて、優しくてざっくばらんな彼女と一緒によく大笑いをした。その時間が好きだった。週末に彼女の家で過ごすこともよくあった。一緒に食べて飲んで、ホームパーティーをした。こちらに滞在しにきたわたしの前夫までがそこに加わっていた日もある。

彼女はわたしよりもずっと子育てにおいて努力をしていた。ちゃんとご飯を作ってあげよう。ちゃんと勉強に協力してあげよう。ちゃんと学校の役員をこなそう。遊びも付き合ってあげたいし、構って話を聴いてあげたいし、だから子供との時間をちゃんととってあげよう。わたしは、彼女がいつもそういう姿勢でいたのを知っている。

彼女は二人の息子たちに自由と愛を知りながら育ってほしいと願っていた。常に息子たちに、どうしなくちゃいけないのか、なにがおかしかったのか、どうするのが良いのかを必死で伝えていた。怒ったり、なだめたり、説得したりしながら。いわゆる、とっても真面目で良いお母さんなのだ。

わたしはいつも、偉いなあと思ってきた。わたしはそんなに頑張れないから、子育てにおいて楽ばかりしてきていたのだ。彼女からすると、多分わたしはなにもしていないグータラ母さん、みたいな印象だったろうと思う。

そんな彼女の息子とわたしの娘は同じ中学に進学し、同じクラスになった。彼女の息子は幼稚園の頃から透き通るようにきれいで可愛くて、小学校を卒業するころだって彼の無垢な笑顔に天使を見ていたわたしだった。

ところが、彼が中学に入ってからというもの、問題行動ばかりを起こすようになった。ちょうど、お母さんがいちばんショックであろうことばかりをするようになったのだ。宿題をやらず、話を聞かず、授業を聞かず、学校にナイフを持ってくるようになり、12歳の彼がどうやって手に入れたのかはわからないけれど、トイレでタバコを吸ったのが見つかって、一時的に通学停止にまでなってしまったのだ。

その頃にはわたしが学校のお迎えを夫任せにするようになっていたので、彼女と自然と疎遠になっていて、そのことで彼女とは話をしていない。けれど、勝手に想像するかぎり、彼女がこのことでどれだけ辛い思いをしたのかがわかるような気がする。きっと、これまでこんなに頑張ってベストを尽くしてきたのに、なぜ報われなかったのか、なにが悪かったのかと考えたりしたのではないかと思う。

わたしは、彼女のことも彼のことも悪いと思わない。悪者なんていないと思うのだ。彼女はお母さんとしてベストを尽くしていたし、彼は息子としてベストを尽くしたのではないだろうか。彼は、お母さんが自らを縛っている「枠」を壊してくれたのだと思う。

なぜそう思うのかと言うと、わたしは彼女が働いていなくても、庭付きの家でなくても、家事をちゃんとやっていなくても、息子が彼女の理想のとおりでなくても、そんなこととはまったく関係なく、彼女が好きだったからだ。

わたしは彼女のとがった犬歯の形が大好きだ。顔がものすごく好きだ。カールした金髪が好きだ。あの口角の引き締まった爽やかな笑顔と、彼女の陽に弱くてすぐに赤くなってしまう肌が好きだ。内緒話をするときの声と姿勢が好きだ。英語を使うときの発音もアクセントも好きだ。きっと彼女の息子だって、お母さんのことは、ただ無条件に愛しているはずだ。だから、お母さんの期待なんか、壊してあげたいんじゃないかな。いいお母さんじゃなくたって、息子を彼女の期待通りに育てられなくたって、彼女が素敵で素晴らしいことに変わりはない。彼女の魅力は、なにかの結果になど左右されないと思うのだ。

わたしは彼女といてときどきふと、わたしが仕事をしなくちゃ、子どもたちはたまに土に触れさせてあげなくちゃ、だから庭付きの家を買わなくちゃ、真面目な子に育てなくちゃ、絶対そうじゃなきゃね。と言ってがんばる彼女に「そんなの、どうでもいいじゃん!!」と言いそうになることがあった。「なに言ってんの!!あなたがいるだけで、あなたを見ているだけで、超気分がいいよ?!わたしの愛は変わらないよ!!」と。

でもわたしは言わなかった。彼女はそのことで一生懸命だったのだ。彼女がその枠を持っていることで、輝いているのを感じていた。だから彼女がその枠を守り、壊し、再生するという経験をするのを邪魔したくない気がした。それもまた、美しくてオツだと思ったから。
わたしだって、自分の一生懸命にやっていることがあったら、そこから問題が起こったっていいから、やりきらせてほしいもの。

だれかが制限の中にあること、めっちゃいいじゃないか!
そこで問題が起こるなら、なんかスゴいドラマをやるんじゃないのか!
そこを超えていくこと、かっこいいじゃないか!

悪いことに見えることを、「一見悪そうに見えるけど、これ、本当に悪いのか??」「ここにメリットが眠っているんじゃないのか?」と疑ってみるのが好きだ。悪そうに見えることほど、構わないで見守ってみたくなって、その観点を持つことにチャレンジしたくなる。

ある男がいました。彼は事故にあって足の骨を折りました。いいことでしょうか、悪いことでしょうか。そこで救急車を呼んでくれた女性と恋に落ちました。ではその事故はよいことでしょうか、悪いことでしょうか。彼女とは結婚しましたが、結局離婚してしまいました。あの事故はいいこと?悪いこと?離婚したあと、事故の後遺症を抱える人の会で最愛の女性と出会いました。・・・でははじめの事故は、いいこと?悪いこと?そう、どう見るかによる。つまり、見る人によるし、そのタイミングにもよるのである。良くも、悪くもないのだ。

病気をしてよかったこと。
事故に遭ってよかったこと。
停学になってよかったこと。
無一文になってよかったこと。
ホームレスになってよかったこと。
離婚してよかったこと。
軽蔑されてよかったこと。

これらを見つけてみる挑戦はいつも、切なくて苦しくて、ぜんぶがひっくり返されるほど辛い罪悪感や人生ごと否定したくなるほどの無力感に襲われることだったりもする。けれど、目を向けるのすらキツイものほど、その「よかった」の虹が見えたときには、空が飛べそうな喜びが待っているのだ。

誰かや自分の欲している、または必要な、そうした経験の邪魔をしたくないと思う。それから、一見悪いことに見える経験をした人に、失敗だったね、なにがダメだったのだろうね、と言いたいとも思わない。それはすごい経験だったね!と思いたいし、お疲れさまでした!!!って言いたいと思う。

というわけで今日は、悪いことが起こったように見えたときに、きっとそれはベストなドラマ展開なのだと思ってみるのもひとつの手だね!という感覚のシェアでございました。それではまた、明日ね~!

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)