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1023/1096 力になる現実逃避・力を奪う現実逃避

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1023日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1023日目。今日は鬼滅の刃の主人公、竈門炭治郎の誕生日。おめでとう炭治郎!ありがとう炭治郎…わたしは炭治郎と出会えたおかげで、しっかり怒らなくてはならない時と、ぐっと堪えるべき時との境界線をはっきりすることを、改めて己に問い直すことができました。人の優しさとはなんなのかを、何度も何度も考え直すことができました。頑張りどころから逃げてはならないことを、改めて胸の真ん中に置き直すことができました。

鬼滅の刃を知って、炭治郎を見習って生きようと思ったときに、身体じゅうが熱くなるほどの熱意を感じました。わたしも困難を乗り越えて、岩を切りたい。頑張れ、俺!!

人が苦しく辛いとき、強く優しい人への憧れは、想像以上の支えになる。これまで、炭治郎ならきっとこうするだろう…と考えることで、気持ちをリセットして希望を持てたことが何度もあった。炭治郎に出会えてよかった。

今日は炭治郎への感謝を胸に、記事を書こう。

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今日は現実逃避について、わたしの思うところを書いてみようと思います。みなさんは、現実逃避をすることがありますか。わたしにはよくあります。

やらなくちゃならないこと…たとえば自分でも、やりたい、終わらせたい、乗り越えたい、と思っていることなのに、どうしてもアイデアが湧かなかったり元気が追いつかなかったりで今すぐに取りかかれなくて、一旦離れることがよくあります。この毎日投稿を書いていて、これまで一体何百回それをしたかわかりません。

現実逃避には二種類あります。それは、力になる現実逃避と、力を奪う現実逃避。力になる現実逃避とは、現実逃避をしたおかげで、やるべきことに向かうことができるもの。力を奪う現実逃避とは、それをしたあとにますますやるべきことができなくなってしまうものです。

わたしはもとの性質がボンクラなため、世の中に対応できないことが多すぎて、基本的に自分の力を奪うタイプの現実逃避ばかりをしていました。ちなみに、そうした現実逃避というのは、繰り返すうちにそれへの躊躇や罪悪感のようなものがだんだん薄れて、平気でやるようになってしまうのです。最初の浮気とか最初の盗みとか最初の殺しと同じです。人間、最初に一線を乗り越えるのが一番難しいものなのです。

自分は、悪い現実逃避についてはほとんどプロだったと言って良いと思います。本当に、それで食べてきた以上プロと言わざるを得ないと思うのです。なんと不名誉な…!笑

プロボンクラーの実力が高まってプロ現実逃避ャーになったと言いますか、プロボンクラーがプロ現実逃避ャーに格上げになったと言いますか、そのあたりが曖昧ですが、自分はハイレベルな現実逃避のスキルをもつ、上弦のボンクラだと言えます。なん~~だそりゃ。どうして自分はくだらんことを書くときに、こうも筆が走ってしまうのだろう。

そんな上弦のボンクラ(堂々と上弦だと書いていますが、あたしゃのボンクラ度、とてつもないのでナメたらあかんで)のわたしは、学生のころからその実力の片鱗を見せていました。テスト勉強をやらなくちゃいけないときに、現実から逃避してドラクエで遊ぶ。当然、ゴーレムは倒せても、テストは倒せない。高校生になると、学校に行かなくてはならないのに、現実から逃避して、学校に辿り着く前に街で下車し、コンビニ巡りをしてしまう。ヤマザキのパンとメントスを買う。食べる。口の中がフレッシュになる。が、親の顔がチラついて心の中は曇る。大人になると、仕事に行かなくてはならないというときに、その現実から逃避して、途中下車をしてしまう。フフフ…そして遊ぶのだ。デパートをフラフラして、公園のベンチでグースカ眠ったりして(危ない…)、家に帰る。そしてその半日で職を失う。

こうして、やれればあとから気分が良くなったであろうことから逃げて、そのあとに必ず、負けたと思う。自分に負けたと。自信や元気が奪われる。一時の気の迷いで己の力や可能性が奪われる。仕事でも、勉強でも、掃除でも、料理でも、日記でも、これをこれまで一体どれだけやってきたのか、数え切れない。これが、上弦のボンクラの悪手な現実逃避の実力である。

このタイプの悪い現実逃避には共通点があって、それは「やるべきことは、いったん現実逃避したあとにやろう」と思えていないこと。現実逃避した瞬間、やるべきことをやらない方向で決心してしまっているのです。現実逃避が、本気の逃避行になってしまっています。浮気じゃなくて、本気なのです。元サヤに戻る気がないのです。もうそれはもはや現実逃避というだけでは足りません。そのあとの現実を不本意なものにしてしまう、現実決別であり、現実破壊であると言えます。

この原因は単一のものではなくて、まずは自分が無気力だったことがそのひとつとして挙げられます。ひたすらに対応が嫌で、意欲がまったく湧かない。他にしたいことがあるから嫌なのではなくて、単にそれをしたくないだけでした。ただただやりたくない。やらなかったとしても得られるものはなく、強いて挙げれば「やらずに済んだ」ということだけで、実になることは何もありませんでした。

他にもうひとつ大きな理由は、興味のないことをしていたということ。興味のない学校、好奇心の湧かない職場。興味がないので、重い。なにが重いって、もちろん向かうときの足取りです。その重さはヘビー級で、鉄球のついた鎖を引きずっているといえるくらいでした。心は檻に囚われたまま。あれでボーダーの服を着たら、囚人そのものだったと思います。

そんなわたしが、自分の力になる現実逃避をするようになったのは、なにも「意欲の湧かないことでも逃げずにやれるようになったから」ではないのです。今だって、興味のないことをやる羽目になったら、その場で足取りヘビー級の囚人となります。相変わらず、そんな難しい芸当はできないのです。

わたしはそんな自分が嫌でした。だから、逆のアプローチを試みてみたのです。つまり自分を変えるのではなくて、環境を変えたのですね。環境を自分に合うようにカスタムして整えたら、良い現実逃避ができるようになったということ。俺はムショ暮らしから足を洗った…いや、脱獄をしたのだ…!!

良い現実逃避というのは、力になる現実逃避。現実逃避したあとに、やるべきことがやれるようになっている。現実逃避する瞬間に「この時間のおかげで、やるべきことが必ずやれる」と思えている。そう決められる。

現実逃避が、やるべきことをやるためのチャージになったり、ヒントになったり、リフレッシュする時間になっているということです。現実逃避の間に、やるべきことについての迷いが断たれたり、新たしいアイデアを得たり、そのやるべきことのいかに楽しいか、いかに欲しいか、いかに必要かということが改めて見直されたりするのです。すると、現実逃避がそのままやるべきことをやる力になっているのですね。

そのために必要なのは、これらのうちどれか、あるいは両方です。

◯現実逃避の間、やるべきことに関連することをしている
◯現実逃避の間、休息をとっている

現実逃避の間に、やるべきことにまったく関係しないことをすると良いと考える人がいますが、それは根本的に発想が逆です。「現実逃避をするときに、やるべきこととはまったく違う世界に逃げたい」と感じるのだとすると、現実逃避のあとにも、それをやる力が湧いてきません。

たとえば、部屋の片付けをしたくないというときに、単にテレビを観たり、カラオケに行くなどして現実逃避をしても、そのあともまた結局逃避する前と同じようにやりたくないままなのですね。それであれば、現実逃避の間にも片付けそのものから完全に逃げてしまうのではなくて、インテリア雑誌を見るなどして「部屋に関すること」に触れていたほうが良いのです。そこでとても好みのお部屋を見たりすると、こうしちゃいられない、片付けをして掃除をして、お部屋をきれいにしよう!とやる気が湧いたりします。場合によっては、今のままじゃ嫌だから、断捨離もして、さらにはレイアウトまで変えたいじゃないの!と思えたりする。

料理だってそうです。やりたくないからといってダラダラと漫画を読んでいても、なかなかやる気にはなりません。ならば、すぐに料理を始めずに現実逃避をする間にも、料理からは完全に逃げないで、美味しい料理のレシピや、グルメに関する情報など、食べ物関連のことに触れている方がいいのです。すると、あ!これ食べたい!今からこれを作ろう!と思えて急にやる気になったりするのです。

片付けや料理は生活に必須のことなのでやるべきことだと言えますが、これが、仕事だったらどうでしょうか。料理というのはたとえば拭き掃除に置き換えたりすることができませんよね。けれども仕事は転職して変えることができます。現実逃避の間に、考えたり観たり聴いたりしていたいと思えないようなことを仕事にしているとすると、それは苦しい日々です。自分の仕事が、「現実逃避の間だけでも忘れていたい」と思うようなことだとすると、現実逃避のあとにも意欲が湧きにくいのですね。

やっと夏休みだ、やっと週末だ、やっと旅行に行ける、それが終わったらまた地獄…というような環境にいると、現実逃避があまり力になりません。
その現実逃避が休息となって、休息のあとにまた意欲が湧くのならまったく問題はありませんが、どれだけ現実逃避をしても意欲がわかないことだとすると、つらいものがあります。その人にとっては、せっかくの現実逃避が、やるべきことをますます嫌だと感じさせるものとなってしまうのです。

日常に飽きて旅行に行って帰ってきたら、我が家が愛しく感じられる。
これはいい現実逃避です。
日常に飽きて旅行に行って帰ってきたら、我が家がますます残念に思える。
これは悪い現実逃避です。
この場合は、日常に疲れたときに、完全に家から逃避して旅行に行くという現実逃避をするよりも、家を出たとしても本屋に行って、あるいはIKEAに行って、家について触れてアイデアを得るほうが良いのです。「非日常の世界」と「我が家」を比べて我が家への愛を感じられないのなら、何度日常から逃げても同じことの繰り返しです。自宅を出て現実逃避をする間も、逆に家のことを検討するほうがいい。すると、自宅がお気に入りでない理由が見えてきたりします。

夫にイラッとして飲みに行って帰ってきたら、夫への愛を再確認した。
これはいい現実逃避です。
夫にイラッとして飲みに行って帰ってきたら、夫がますます嫌に思えた。
これは悪い現実逃避です。
この場合なら、夫にイラッとしたときに、夫から逃避して飲みに行くという現実逃避をするよりも、自宅や近所のカフェなどでひとりになって、夫婦のことを考えながらリラックスする時間にしたほうがずっと実りがあります。「非日常の喜び」と「夫」を比べて夫への愛を感じられないのなら、何度夫との日常から逃げても同じことの繰り返しです。夫から離れて現実逃避をするというとき、非日常を満喫することに繰り返し逃げるよりも、逆に夫の存在と地続きの日常生活の中で、ひとりでいたほうがいい。夫について、ありがたさや愛を再認識したり、どうすると良いのかが見えてきたりします。

とても意外なことですが、こうして現実逃避の間に、逃避したい対象から完全には離れずにいるほうがいいのですね。すると、とても実りがあるのです。逆に言えば、完全に逃避したいと感じるものというのは、やるべきこととして保っていても仕方がないということ。思い切って、断ち切るとよいものなのだと言えます。

現実逃避をするときに、逃避中もつながっていたいこと。それがわたしたちにとっての、「本当にするべきこと」なのです。好きな仕事を楽しんでいる人というのは、休憩中や休暇中にも、ハートがそこから離れていません。
そういうものへの熱意やパワーというのは、現実逃避中にすらチャージされるのです。だから、楽しく続けられるのですね。

というわけで今日は、力になる現実逃避、力を奪う現実逃避についてのわたしの好きな観点のシェアでございました。どなたかにとって、参考となりますように。

それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)