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539/1096【往復書簡】俺はフック船長だ

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で539日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

539日目、今日も地球が自転して、わたしの住む場所が太陽の光に照らされている。最近すこし元気をなくすことがいくつか続いたけれど、ブログがあるのが嬉しい。太陽やら自転やらなにからなにまでと、発信できる媒体があることに喜びしかない。なんと素晴らしき世界!!

こう思えるのは、発信に本気を込めたり正直を込めたりしているからだと実感されて、改めてこれまでの538日を嬉しく思った。ここに向かっていつもなにかを虚飾していたら、元気のないときにはそれへの罪悪感やストレスに、むしろ対応できなくなるだろう。

今日も思いをそのままに!読む人を信じることは、宇宙を信じることだ。
なぜなら、その読む人がいるのはその人の周辺があってのことであり、それはひいては地球に自転があるからであり、宇宙の果まで続くつながりがあってのことだ。つまり、目の前の一点のことを信じるというのは、何もかもをも信じることと同義だ。

その、大いなる何かを信じる心というのは、いつも自分のすぐ目の前のことが出発点だ。目の前の石を信じれば宇宙が信じられる。この道を行けばどうなることか。危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。踏み出せばその一歩が(略

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上の圭吾さんの記事へのお返事です。

心の顔とは、要するに『魂』なのかもしれません。不思議なことに、どれだけ年齢を重ねても、魂の部分は常に純粋。こどもの部分が残っていると言うよりも、永遠に透明で、永遠に無邪気で、永遠に無垢。おとなもこどももなく、男も女もない。そんな部分と接することができた時、私は『おおいなる自由』を感じるのですが、そういうことってありますか??

めちゃくちゃあります。というか、その部分で生きています。往復書簡の最初のお返事に書きましたが、わたしはそのために、肉体的には女性で恋愛対象も男性なのですが、性別のない感覚です。

性別だけでなく、その意味では年もとらないし、汚れないし、人格もなくて、ただ観察していて、肉体の壇珠さん自体は冒険中だな!と思います。そして圭吾さんと同じく、そのことから自由を感じます。不自由というのはある意味でとても都合の良いものなんですよね。それがなくなったら、わたしはなんだかただの瞬間でしかないと思います。そんなふうに感じて生きています。

この無垢な側の感覚が、人間社会のものさしで測るとバケモノなんですよね。なんの遠慮もねえ!なんの躊躇もねえ!なんの囚われもねえ!みたいなのって、人間の常識から見るとバケモノなのですが、その無垢な側からすると、「いやいやいやそんな俺達が人間に化けているんだってば」と思ってしまう、という感じがしています!!こんな事書いたら怒られそうですが、みんなタヌキでキツネのどろろんぱです。

人間の誕生の瞬間は感動的なものですが、もしかしたら「はいお化け出た~!人間に化けて遊ぶ世界へ、ログイン成功おめでとう~~!!」ということなのかなと思ったりして、街で出会う赤ちゃんを見ながらひとり楽しんでいます。おお~ようこそ!!化けたてホヤホヤだね~みたいな!

私は、無駄に「乱世に備える」傾向があります。どうしてなのでしょうか、デフォルトが乱世なのです。日本は平和です。しかし、どうしても乱世に備えた生き方をしてしまうのです。

圭吾さんのこの感覚が多少なりともわたしにも感じられます!!
若かったころ、わたしは、いろいろな条件を重ねた状況の上に人生を築くのがすごく嫌でした。どこかに勤続することを条件にしてローンを組んで家を買ったりすることが、自分で立っていないようなイメージがあり、恐ろしく思えました。ある意味で原始人というか、自分のチキンな面でもあります。

会社があり、その会社が利益を上げることのできる社会情勢があり、そのうえでさらに人間関係や業績が良好であり、社長が元気で、、、という多くのものが土台となっていて、その土台は自分で作っているものではないのが恐ろしく思えました。当時のひ弱な自分では、土台が崩れたら死ぬと思いました。会社よりも土や川や海があったほうが安心な気がしていました。

その当時とにかくうまくなりたかったのはキャンプや釣りや鳥を捌くことや野菜を育てること、それから料理や狩猟などでした。住居を自分で造れるようになることにも興味がありました。いざとなったら、ということを考えるのが超楽しかったです。わたしはいざとなったら野鳥を捌くことができますし、哺乳類も捌くことが可能ですし、衣類や家を造ることができ、野菜やハーブをうまいこと育てることができます。

なんでしょうね、それら原始の自分がいたという確認が、安心と喜びを感じる要素になっています。「たくさんのもの上に成り立ったフラフラしたもの」にしがみついて生きている人が怖がっているのを見ると、その積み木をぶっ壊して、地上に生きればいいじゃないか!!!ほら、たんぽぽの葉は食べられるんだぞ?!さいとうたかをの『サバイバル』にも、ナイフさえあれば何でもできると書いてあっただろう!!ナイフを持ってくれば解決だ!!と言いたくなるなにかが、わたしにもあります。

壇珠さんは、誰かを好きだと思ったときに、どういうファーストコンタクトをとりますか??女性から多くもらう声に「いきなり好きだと言うのは、はしたない気がするからできない」というものがあります。私は「体が反応をしています!」という風に、割とどストレートに言ってしまうタイプの人間ですが、女性にもこのやり方が通用するのかは謎です。

考えてみました、改めて振り返って・・・しかし、まず最初に「あれ?そう言えばどうしていたんだろう自分は?!」と、わからなくて驚きました。

わたしは、告白をしたことがないんです。好きだと言葉に出して打ち明ける、というシチュエーションがまったくありませんでした。そもそもその前に、意外にもバンジーを飛びながら書きますが、好きとか好きじゃないとかは鼻っからどうでもいい、という気持ちがあります。わたしが感じるのは、まずはもっとこう、「あなたを相手にして五感全部を使いたいのですが!!」という思いなんです。あなたの心が好きだとか、~してくれるから好きだとか、そういうのは全部ウソだと思っています。そんな移ろいやすいところを根拠にしたことを言っているから、相手の心が変わったり、なにかをしてくれるという期待が裏切られたりすると恨むんじゃないかなあと思います。なので、「好きです」とか言うのはうまいこと綺麗に見せようとした感があって、わたしに限っては、それは異性への告白という意味では真っ赤な嘘です。

その気になったのなら、そのときはもう「好きです」よりももっと前倒しに感じているものがあると思うんです。会いたいとか、なんとか二人きりになれないかとか、セクシーだなあとか、チャットじゃ満足できないとか、匂いが嗅ぎたいだとか、すみませんがあなたの味が知りたくなっていますだとか、愛がどうのこうのとかいうことよりも全裸を見るほうが先だとか、そういうことを思っています。皆は思っていないのでしょうか。わたしは思っています。それで、それをすでにもう何らかの方法で伝えてしまっているので、あえて「好きです」と言う必要性がどこにもありませんでした。アバズレです。世間で言うアバズレです。中のわたしは無垢で穢のない魂ですが、今世でのわたしの地球舞台での配役は『アバズレ女A』みたいな感じなのだと思います!!

自己完結できる性が女性性なら、悲しいくらいに他者を必要としてしまう性が男性性。私は、自分の中に、どうすることもできない欠落を感じます。そして、どうすることもできないなどと言っておきながら、どうしようとも思っていない自分もいます。欠落を認めて、欠落を生きる。欠落こそが、自分だと感じる自分がいます。

わたしには、これがとても美しきことだと感じられます。男性性の惚れ惚れするような美しき感覚だなと思いました。どうしても他者が必要で、他者の喜びが必要なのを男性性だと思います。だから、そのぶん拒絶される恐れもまた、本人ですらなかなか直視できないほどであろうと感じます。

わたしは女を強いと思います。拒絶されてポロポロ泣くことのできる女を強いと思います。自分で「嘘でしょう?!」と思うほど傷つくことができます。底なしに思えるほどです。

わたしから見た圭吾さんは、この拒絶の恐れをなかったことにしないで、かつ克服することも目指さないで、怖い!!と感じたままで居られる人です。
欠落してないことにもしないし、欠落を埋めました!!と克服することを目指さず、「欠落していて辛いです!!」「欠落小僧です!!欠落に翻弄されています!その翻弄が逆に生きるパワーです!放置するくらいなら翻弄してください!」と思ったままで居られると、お話していてもいつも感じていました。そこにいつでも等身大の人と一緒にいる喜びと、こちらが素っ頓狂なわがままを言える自由を感じます!男が弱みを持ってくれているとき、逆に頼りがいがあるのだと痛感しました。

ものすごい乱暴な質問になりますが、壇珠さんにとって「これまでの人生の中で一番感動した!」と思える瞬間はいつですか??

考えてみました、、、むずかしかった!!あまりにありすぎて、そしてどれも同じだったような気がして。ひとつは妊娠がわかったときだったと思います。それから、出産が終わった瞬間、赤ちゃんを抱きとめたとき、です。
変なのですが、自分が有機生物であることに畏怖を感じたのと、赤ちゃんというひとつの完全宇宙が出てきたことで、神はどこか遠くの白い雲の上で、白い服を来て髭を伸ばしているのではなくて、今目の前にあるものすべてだと感じました。涙腺が痛くなるくらい、感動的でした。

出産は女性特有の経験なので、それ以外で探してみましたが、夜のヴェネツィアを飛行機の窓から見たとき、人類のいじらしさと努力と悲しみとの歴史が一気に頭に浮かんできた感覚に陥り、涙が滝のように溢れてきました。他にも、似たような素晴らしい経験がたくさんあったのですが、どれがいちばんだったのかと考えるととてもむずかしいです。

一輪車に乗れるようになったときが「神よ見たか!!」と思うほど嬉しかったし、前夫と暮らし始めたころに何もかもが最強に面白かったのを覚えていて感動の連続だったと記憶されているし、編み物ができるようになったときになぜか爆裂に嬉しかったし、マラソン大会で、走って走って走って走って走るうちに走る自分がなにをしているのか不思議になったときにも、この世が不思議に思えて感動しました。これまでにあんまりにも感動がいっぱいありすぎたため、一番好きな映画はなに?と言われたときの気分と同じになっています。

ひとつ、もっとも魂の震えるような思いをした経験をあげるとしたら、わたしが自分をいなかったと気がついたときの、世界を見る感覚がすべてがひっくり返った衝撃の瞬間です。うっっっっっっっっっっっっっっっわああああああああああああああああああと思いました。自分が愚かで無明であるということはなんというギフトだったのだろうと、その神々しさに完全完敗木っ端微塵になる思いでした。

一緒に音楽を奏でたいからこそ、不一致に苦しみ、技術不足に苦しみ、コミュニケーション不足に苦しむ。でも、いつだって、根底にあるのは「ひとつの音楽を奏でたい」と思っているまさにその部分で、そこに感動を覚えるのです。こんなにも違うのに、こんなにも一致を目指す営みに心が打たれるのです。

人と人の関わりって、これだから面白いですよね。夫婦も恋人も友だちも同じだと思います。逆に言えば、不一致をなんとかしたいと思えなくなったらその関係性は破綻していると思います。性格の不一致で離婚する夫婦は多いですが、離婚しない夫婦に不一致がないのかと言うとそうではないと思うんです。むしろ不一致があるからこそ、それなのにまだ関わっていたいということが喜びになっているのだと思うんです。不一致をいいように踏み台にしながら、互いの弱みを運用する力を高めあえる関係っていいなと思います。

君は寒いのが苦手なんだね、僕は暑いのが苦手だよ。という不一致にイライラして、もうそれをなんとかしたくなくなっているときって、それだけのことでも別れる理由になると思うんです。でも、その不一致があるのをうまいこと利用して、じゃあ君のために一枚薄い布団を増やそうか、じゃあ夏はその布団を持って避暑地のバンガローに行きましょう、となり、「どこに行こうか決めよう!そのお金を作ろう!」というふうに暑さ寒さへの弱みを発展させて一緒の方向を見るときが、不一致を楽しめるときだと思います。

だから、ピッタリ合う人を探していたら、ずっと人間関係を楽しむことができなくなってしまうと思います。うまくいく仕事を探していたら仕事がみつからないしつまらなくなってしまうし、失敗しない人生を探していたら、人生が退屈になってしまうと思います。社会から求められるものと自分の欲しいものとの不一致も、きっと不一致こそが鍵となってエンジンを掛けられるなにかがある証拠だと思うんです。くっそー不一致があるぜ・・・というときこそ、「今、俺のこの手に冒険の謎が・・・!」とアホなことを思ってしまうのが枠を突破するマインドセットなのだと思うんです!!

不一致に苦しむ人は、どうやってそこから逃げようかと考えるよりも、どうやってうめえこと利用してやろうかとナイフを舌で舐めずりながら考えてみてもいいのだと思います。もっとこう、海賊のように!!ワイルドに、図々しく、恐ろしく、ジャイアンのように。そのときのアファメーションは、「俺はフック船長だ」だと思います。男も女もです。女だって、自分の乙女の願いのためにいざとなれば自分自身がフックになれるのだと知っていたら、自分でいることが面白くなるのだと思うんです。

そうすると、湧いてくるじゃないですか!
縦横無尽に境界線を超えて大海原に出てやる!みたいな、骨付き肉にかぶりついてやる!みたいな、好かれることより金品財宝だ!みたいな煮えたぎるマグマが、己に眠る本性が、フックの魂が・・・!!すると、ああ、金品財宝よりもなによりも、フックの恐れのない自由な心が羨ましいんだ!という本音に、直に感情の手を伸ばして触れることがあると思うんです。

その、女にも男にも眠るどこにも遠慮のないのびのびとしたものへの憧れを刺激できるのなら、音楽でも、恋でも、フックのアファメーションでもいいからしっちゃかめっちゃかに試して、周囲をぶっ散らかして進んでいい時があるのだと思います。その気概と遊び心をいつでも持っていたいと、わたしも思います!!

【3月のオンラインセッション※残1枠】


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