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874/1096【迷い】どっちつかずで決められないとき…

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で874日。

※この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。

874日目。2月も半ばになった。あと10日でこの連続毎日投稿は2年と5ヶ月になる。あと14日間で888日目のゾロ目、あと26日間で900日目を迎える。そして1096日のゴールまでちょうど222日だ。

ここでちょっと考えてみると、今自分がいちばんモチベーションを感じるのは900日目の目標だ。もちろん目指すは1096日の達成なのだけれども、900日のほうがより目の前にある喜びだからだと思う。

それは、憧れのアイドルを思う日々にありながらも、目の前に気のある素振りをしてくれる可愛い女子が現れて猛烈にその気になってしまう感じとか、何時間も煮込んだシチューを食べたいと思っていながらも、漂ってきた香りに刺激されて猛烈に焼き肉を食べたくなってしまう感じとかと同じなのだと思う。遠い憧れよりも、近くの快楽。

だからわたしは、””少年よ大志を抱け””を間違いだとは思わないが、””抱いた大使を細切れに分解せよ””の補足があるとよいのだと思う。大志に向かいながらも目標は小さく。隣で色目を使ってくれる可愛い子のように、すぐそばから香りを漂わせる焼き肉のように、目の前につい掴みに行きたくなるような”にんじん”がぶら下がっている方がいい。

今は900日達成の香ばしいかほりが、焼き鳥のように素敵メンズの体臭のように漂ってくる…はぁ楽しみだな!

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ここイタリアはヴェネツィアに暮らして、今度の春で丸10年になります。日本で暮らしてきた日本人にとってもともとそれなりに不便なところですが、昨年から数度に渡るロックダウンがかかり、さすがに窮屈に…ほとんどの店が閉まったまま。週末にも食料品店にしか行くことができず、非常に不便です。

衣類や下着や電池など、買い足したいものがあってもそれもままなりません。でもわたしはフラストレーションが溜まっているわけではありません。まあしゃーないし、まあ家も楽しいし、まあ不便でもなんてこたぁないのです。多少は「ロックダウン、早く終わらないかなあ」と思いつつも、まあね、まあこんなものです。だいじょうぶだぁのだっふんだです。

わたしは個人的に、ストレスや問題のない状態を目指すことや、疲れにいちいち気を配ってケアしながら生きることがストレスになってしまいます。なので、あまりこまめに気を使っていません。ぐぐーーーーーっと伸びをしたいときに伸びをして、あとは楽しく食べて終わりです。運動はいきなり音楽に乗って踊るか、滑る靴下を履いて家の中で滑って遊ぶか、小学生の頃から続けている忍者修行として抜き足差し足忍び足の練習をするか、だけです。

問題に常に着目して正しい対処をし続けること自体がストレスなのです。それを糧にできる人もいるのでしょうけれども、わたしには逆に気がかりが増えたのと同じようになってしまうのです。

「そうやって放置していると、知らない間に溜まった疲れがあとからあなたを病気にしますよ」「気づかぬストレスが、気づかぬトラウマが、あなたを蝕んでいますよ」「無駄な緊張がずっと続いて、パフォーマンスが落ちますよ、自然なあなたではないのですよ」というような言葉たちに、以前はどれほど引っかかっていたことでしょう。そのたびに怖くなって戻っていましたが、これではまるで脅しです。

添加物を摂らず、リラックスをし、ヨガをして、有機栽培のローフードだけを食べ、常に身体に気を配って疲れや緊張をリリースし、電磁波と靴と下着と歩き方と座り方に気を配り、化学繊維と石油製品を使わず…当時はそういうことをしないでいるのを「良くない」のだと思っていました。

その信念はあまりにも絶対的な力を持っていて、まるで宗教のようでした。しかしわたしはずっと気がついていました。また添加物を食べてしまった、また身体を伸ばすのを忘れてしまった、しばらく同じ姿勢でいたのにまたケアが及んでいない…そのたびにズルっと引きずる罪悪感や焦り。それは自分にとって決して気持ちの良いものではなく、それどころかむしろ大きな負担となっているということに。

止めれば気楽。でも止めるのは身体に悪い…かといって、続けるのも辛い…という考えにハマり、しばらくそこから動けずにいたのです。

健康で居ることというのは万人の願いでありながら、そこに強くフォーカスして生きるというのはまた別の嗜好の方向性も関わってくることなのだと思います。もともとこれらのことに趣向が合う人や一種の趣味やマニアにならない限り、本当に四六時中楽しめはしない。けれども、健康を願うのは自然なこと…だからこそ、なかなかやめられない。辛い修行のようなものだったと思います。まるで狭い箱に入って生きているみたいでした。正しい箱。長生きの箱。健全の箱。

今はそこからフリーになって身も心も軽くなりました。わたしは極端なので、あるとき思いっきりひっくり返して、綺麗サッパリやめてしまったのです。単純すぎますが、まあ好きにして死にましょうと思ったのでした。たとえそのために病気をしても仕方がない。でも、それでもいいから、この箱から解放されて生きてみたかった。対岸に渡って、そちらを謳歌してみたかった。

その解放感と引き換えに健康を見切ってしまう時点で自分を大切にしていないのかもしれないけれども、とにかくまず一旦、息継ぎがしたかったのです。そのせいで行き過ぎて怪我をしても、パフォーマンスが落ちても、寿命が縮まっても、病気をしてもしゃあないと。まず一度リラックスしてみようと覚悟を決めました。

そして自分を思い切り開放しました。好きなものを食べる!ゲームをする!そしていきなり大の字で寝る!肉の脂を食べ、同じ姿勢でゲーム画面を見続け、化学繊維を着て、コーラを飲み、アスファルトの上でシティーに生きる…!わたしは皮肉にもそれでやっと、それまでに一度もなかったほどリラックスすることができたのです。わたしは都会が好きで、ジャンクフードが好きで、ゲームが好きで、凡庸な現代人でいるのがいちばん気持ちが良かったのでした。子どもの頃の生活に近い暮らしが最も落ち着くものなのだと驚いたのを覚えています。

こうしてわたしは、ハマっていた健康教から脱洗脳しました。とは言え、はじめのうちは自分がひどく堕落したような気がして恐ろしかったものです。自分を見切った堕落者。ナチュラルライフの負け組。自然派界隈の落ち武者です…しかしそれよりも解放感が勝って、結局ザイオンには戻りませんでした。マックを食べた罪で吾輩をさらし首にするがいい!!( ゚∀゚)ヌハ!!ヌハ!!!ヌ八八ノヽノヽノヽノ \

こうして、毒素が溜まり身体が凝り固まる可能性に満ちた、しかしストレスのたまらない生活に突入して何年にもなります。とりあえず、今日も元気に生きています。今のところですが、深刻な病気はしていません。リウマチの診断を受けていましたが、その症状が逆にまったく治まってしまったという事実に驚くばかりです。※もちろん医学的な根拠はどこにもありません

今は自分の身体を思いやるのが嬉しくなりました。それをすることが正解だからでも、しないでいることが恐ろしいからでもなく、面白みと慈しみを感じるからやっています。でもそれは、がんじがらめだった健康教から足を洗ったからできること。一旦やめてよかったと、心から思っています。

と、今日はそこから何を話したいのかと言うと、わたしたちがなにかを信じている間は、たとえそれが辛くとも、自分のためになっていると感じられているために止められないケースが多々あるということ。やっていても辛い、かといって止めるのはもっと辛い、という状態に陥ってしまうことってよくあることなのですね。

嫌なところのある友だちや彼氏や夫と、一緒にいるのも辛いが、離れる不安のほうがさらに辛いとか、好きではない仕事だから続けるのは苦痛だが、辞めてからの心配のほうがもっと恐ろしい、だからどちらかに決められずにいる…

そういうときに一番考えてみてほしいのは、その「どっちつかずの状態から抜け出せずにいる」という認識が間違っているということ。それは友だちや彼氏と一緒にいることを選んでいるし、仕事を続けることを選んでいるのです。どっちつかずなのではなくて、そっちを選び続けています。そしてその選択で苦しんでいる。ならばそれを変えたいというとき、その選択に満足するか、もう一方を選んでみるしか道はないのですよ。

もう答えがわかっていることを、まだ決められずにいる、とは考えないことです。答えとは違う方を選んでいてその苦しさをなんとかしたいのなら、もう一方を選ぶ以外にないのです。これがロジカルに腑に落ちると、だいぶ胸の内も整理されます。「どっちつかずでいる」という認識があると、選択肢が二つあるように見えてしまい、それらのメリットとデメリットを比べる考えから抜けられません。そうではなくて、今すでに選択をしていて、その選択ですでに苦痛のデメリットを味わっており、かつもう一方の選択で起こることは未知数なのだとハッキリと認識することが大きな助けとなります。

また、答えが本当にわからないという場合は、あなたが得ばかり考えるがめつく欲深い人か(笑)、どちらかを決めるパワーすらない状態にあります。そのような問題って、どちらを選んでもさほど差はありません。こういうときは、もう選択することにこだわらなくていいと思います。なぜならまずは、すでにいちばん楽なほうを選んでいるからです。そして、答えがわからないのならそれを変えるための強い動機を見いだせていないからです。

今の状態が、そのままあなたの選択なのですね。もう選んでいる。それならば、それでいい。選び直すことに固執すると動けません。そこで唯一するべきことは「今後の人生を、それを選んでよかったと思えるようにする」ことです。ここにフォーカスを当ててしまいましょう。そう考えてみてはじめて、いや、このままではきっと後悔する。今の選択がおかしいのだ!と気がつくこともあるかもしれません。これも、選択に迷ったときにわたしたちを大きく助けてくれる観点です。

というわけで今日は、良いと思うことに苦しんでいたり、苦しいことを辞められずにいるときに、迷いから出るために切り替えられる考え方についてのシェアでございました。どなたかの迷いに一筋の光となってくれますように。

それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)