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816/1096 さよならするのは、つらいけど…

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で816日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

816日目。突然だけれども、みなさんはババンババンバンバン…で始まる「ドリフ大爆笑」のエンディングテーマを覚えておられるだろうか。

いいとこだ いいとこだ
さよならするのは つらいけど
時間だよ 仕方がない
次の回まで ごきげんよう…

毎日投稿の最後の日を思うときに、ときどきこの唄が脳内再生されることがある。いいとこだ、いいとこだ、さよならするのはつらいけど。この感じを、いいなあと思う。どこで終わってもいいところで終わりだと思うだろうし、さよならが切なくないだなんて嘘だし。時間だよ、仕方がない、次の回までごきげんよう。この部分は、まるで死や輪廻転生までを思ってしまう。ごまかしがなくて真っ直ぐでいいな。いいところで終わりだな、ああさみしいな、と思えたら…これをそんなふうに終われたらと思う、816日目だ。

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この世を去るときのことを、わたしはよく考える。
いつも死んだつもりがあって、いつも死ぬことを思う。
するとものすごく、ああ生きているなと思います。
生きているのが、浮き彫りになって…!!
みなさんは、この世界をどんな風に去りたいですか。

わたしは、20歳の頃から、自分が死ぬ場面を想像しています。
いつもやるのは、『現世絶賛型逝去』で、「この世最高かよ」「人生最高かよ」「命最高かよ」と思いながら死ぬという素晴らしき妄想です。

最期の日々に家族などに「空が青いことなめんじゃねえぞ」などと言って死ぬ気がします。お天気は快晴で、太陽の燦々と降り注ぐ部屋にいて、どこも苦しくなくて、「我が人生に一片の悔い無し」「死こそ最高の人生の卒業式」などと思いながら幸せに旅立つ気がしてなりません。それ以外の可能性がない気すらします。

自分、まずあの世に行ってこのようなチャンスが有るならばですが、この世自慢がすごいと思います。しばらくは自分の個の意識があるままではないかなと思うので、もう足を組んでのけぞって座って、

「いやー今回もすごかったし三次元。行き先地球だったんだけどね」

みたいなことを言ってしまう気が…(笑)

死に壇珠「ああ~お前ら魂だからわっかんないか~~、身体があるってマジ面白いのよ。動かせるしね~~」

地球人未経験魂たち「ええーどんな感じだろぅ!!自分とそれ意外とに境界があるってほんとう?」

死に壇珠「ほんとうさ。ここから外側は外界、ここから内側は自分自身、って感じがするわけよ。それでその境界になにか触れると、ひとつひとつ感覚が違うんだから」

未経験魂たち「えええーすごぉーい!!おもしろそう~~~」

死に壇珠「ほんと、今思えばかなり面白い環境だったわーー」

みたいな会話を好き勝手に想像して、今の環境のいかに面白いのか、いかに興味深いのか、いかに素晴らしいのか、いかに奇跡的なのか、いかにありがたいのかを説明しようとすると楽しい。これをしない人生が、考えられないほどだ。なにもかもが、なんでもないようなことが、ただのアスファルトやガードレールや水道水が、懐かしくて興味深くて大好きなこの世の1ピースに思えてくる。慣れ親しんださまざまなものに、べらぼうに貴重で嬉し楽しいモノとして改めて出会い直すことができる。ああ今はまだ、わたしはそれらに触ることができる。残りの時間もわずかになってみれば、あるいはこの世を去ってみれば、初恋の人のように絶賛と悔恨と切なさとに見舞われながら遠い夢のように懐かしく思い出すであろう、まさに今生きている、おもしろ体験の真っ最中なのだ。

子どものころのことを、今になって思ってみれば「あの頃は、どんなに素晴らしい幸せの中にいたのかが見えていなかったな」と思う。それを悪いとも思わず、後悔をしているわけではない。でも、学校が辛い、いじめが辛い、授業が嫌い、先生が嫌い、早く大人になりたい、毎日つまんない、世の中なんか嫌い、と思っていたあのころ、それでもわたしにはたくさんの幸せがあった。今になってみればだけれども、最低なところいっぱいな、最高の子ども時代だったと思う。わたしがもし今あの頃に戻れたのなら、毎日をこれ以上無いほどに慈しむだろう!!あの当時、あの時代を生きていたあの頃の自分が、それをわかっていなかっただけで…

今の自分だってそうだ。あとになってみたら、きっときっと、ああ、あの頃の自分ときたら、とてつもない幸福の中にあったのだ…もう戻ることはできないけれど、あの真っ最中の自分に言ってやりたい!と思うに違いない。

だから、この今、まさに今このときに、その「”後から気がつく”」ということへ、力の限りの抵抗をしたい。今、この最中に、今ここで気がついていたいのだ。この生の最中であることの、いかに素晴らしきかに。いかにリアルで、生々しく、どれほどに望んでこのクリエイションをしたのかということに、いかほどの奇跡かということに。今ここで、後から感じる以上に、ああ!!と感嘆したい。真っっっっっっっっ最中。今これが、この感覚が、この肉体の目の窓から外を見ているこのときが、そのときだ。はははは、死後の自分よ、羨ましいだろう!まだ手があって目があって嬉しいよー!!!

こんな気持になれるから、死について思うのが好きだ。死を、自分とコラボレーションして歪みなく見据える時、そこに立ち上ってくるのは生だ。生がキラキラ輝いてくる。

精神世界のこと、スピリチュアルなことを学んでいると、さまざまな素晴らしきワークに出会う。それぞれにもちろん無限の可能性があるのだけれども、わたしは怖れを超えて、感情や体感や思考をどれも羽ばたかせてハートと響き合って死を思うことのパワフルさを、そのうちの最高の効果のひとつだと思う。生きていて、嬉しいね。ここにいることがそもそも、丸儲けやね。ホホ…

みなさんもよろしければ、週末のリラックスタイムに、どんな風に死のうかと楽しく決めてみてくださいね。ババンババンバンバン、いいとこだ、いいとこだ、さよならするのはつらいけど。時間だよ、仕方がない…切なくて美しい思いは、わたしたちの生の本質そのものですね。生きながらここに気がついていることを、とてもスピリチュアルなことだと思います。

次の回まで、ごきげんよう。
それではまた、明日ね!



毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)