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885/1096【時間の幻想】”自分がいる”を崩しにかかれ!

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で885日。

※この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。

885日目。くはっ…!!900日までのこの距離感…!遠くから見るだけだった彼が、話しかけるなんて想像もできなかった彼が、目の合わせられる距離に来て、話しかけられるようになって、いよいよ15日にはデートに行くことになった、ようなものではないか!15日後には、わたしは彼とひとつになるの…!!ってことでしょう!あはっ嬉すぃ~!!信じられない!!

そして900日目台の腕の中に100日いたら、いよいよ1000日目との出会いが待っているのだ。なんだろうこの”ミドル級から見あげるヘビー級のサイズ”感は。桁が変わるってすごいことだ。印象が違いすぎる。下弦の鬼と上限の鬼との差。竹原慎二とタイソンとの差。豊臣と徳川との差。サウザーとラオウとの差。と大豪院邪鬼と江田島平八との差である。

900日目の達成とともに春がくる。心にはなにが芽吹くだろう!

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先日も書いたことだけれども、進撃の巨人にハマる→主題歌のひとつであるRed Swanを聴くのをやめられなくなる→YOSHIKI氏+HYDE氏を好きになるという経緯で、YOSHIKI氏の曲を聴いている。

自分の人生にこんな事が起こるのが不思議でならない。自分というのは、いくらでも別人になってしまうものだ。だから、この先のことなんかわかったものじゃない。未来とは、過去になど少しも縛られないものだ。

考えてもみれば、自分の過去の行動というのは、自分がやったとは思えないことばかりである。わたしは自宅から遠い高校に通ったため、朝6時に起きて7時に家を出て、自転車をすべての赤信号を無視する勢いでタイヤを発火させながら全速力で90分間漕ぎ続け、切り裂いた後方の空間に汗粒をほとばしらせながら霹靂一閃・神速のスピードで校門に滑り込むということを毎日やっていた。あのままいけば競輪選手になれたのは間違いなかった。太ももムッキムキ。馬に蹴られるより俺に蹴られる方が危なかったはずだ。が、これは誰がやっていたのだろう。というかお前誰やねん。わたしだった人物がやっていたのは確かだが、このわたしではないぞ。

過去のほとんどの行動を、今の自分だったらとてもではないがやろうと思えないことばかりだと感じる。今の自分には再現不能なことばかりだ。好きだった男性や、ほとんどの仕事、許したことや妥協したこと…あのときは確かにそれに夢中だったり、納得していたものばかり。でも、お前誰やねん。わたしだった人物であるのはやはり確かなのだけれど、それをやっていたのはまるで自分の感性と反応と選択は、まるで別人のそれだ…

そして今こうして毎日投稿を書いているこの自分を、未来の自分が「お前誰やねん」と思うであろうことに確信がある。未来の自分から見たら、今の自分は信じがたいほど奇特な人物に見えるのであろうことに、はらたいらの解答以上に確かなものを感じる。スーパーひとしくんを賭けてもいい。

ということは、今も毎瞬わたしは、直前の自分とは別の人になり続けているのだ。そして、直前までの自分は、もうこの自分ではない。”「お前誰やねん」のお前”だ。生きて息をしている間中、自分が”誰やねん化”しているのだ。わたしは、”見知らぬ自分”製造機。つまりわたしは、見知らぬ自分になり続けている存在だと言える。

となるとわたしたちは、『常に次の瞬間どんな自分になるのかを知らず、かつ次の瞬間からその自分は「誰やねん」となっていく』ということになる。未来の自分は知らない別人、過去の自分も別人。別人と別人の間に挟まれて、この『今』という瞬間にのみ、『自分』としての納得がある。

わかりやすいイメージに落としてみると、自分のような人物が乗って流れてくるベルトコンベアーに乗っかっていて、右から常に新しい人物が流れてきていて、それが自分に重なったときが『今』で、その自分に実感を持った途端に左に流れていって「誰やねん」になってしまうのと同じだ。自分というのは、与えられ続け奪われ続ける存在である。

簡単に言うと、
「あ、これが自分なんですね!ってあれが自分だったんですか!!」
というのをやり続けているということだ。

もっと簡略化すると、
「誰やアンタ!ってわしかい!って誰やアンタ!」である。

さらに略すると
「誰?わしか!誰?」
である。

なんでしょうねこれは。笑
しかし、生きているってこういうことなんです。

今のわたしって、今出会ったばかりなのです。
でも会ったばかりですでに、終わったわたしです。

会ったばかりですが、わたしです!
わたしでしたが、もう違います!なのだ。

その人物があなたなのは、一瞬のできごとである。
自分とは、一瞬も慣れる余裕のないまま自分になり、一瞬も別れる覚悟のないまま自分でなくなる人。

これを「自分が別々の人物に一瞬だけ憑依する」のだと考えてみて欲しい。
俺は花子や!花子やったけど宗男や!宗男やったけどジェシカや!ジェシカやったけどボブや!シャッシャッシャッシャッ…!!裕子!マイケル!人志!アンジェリーナ!!瞬間瞬間ごとにそうやって別人に憑依し続けて自分だと思っているだけなのだと考えたら、ほら、そこに、”あなた”は”存在している”のだろうか。

これじゃあわたしたちは、自分のなにを後悔し、自分になにを期待したらいいのだろうか。『今』以外に生きようとする必要があるのだろうか。『今』を感じる以外のことって、実際にやることができるのだろうか。

それどころか、””自分がいる””という概念は、壮大な思い込みなのではないだろうか。次の瞬間に受け取る自分をあなたは知っているだろうか。あなたは、本当にあなたを知っているのだろうか?

あなたがあなただと思って我が物顔で束縛と支配を試みているその人物は、あなたの知らない人ではなかろうか。真実とはある意味でホラーである。

この気付きから、わたしたちは大きな解放を得ることができる。
自分という存在は、思い通りにするのではなく、体験する相手だ。
自分というのは、体験型のエンターテイメントだと言える。

わたしは、次々にやってきては去っていく壇珠さんを体験している。過去の自分を理由にして未来を決めなくてもいいし、未来のために今を犠牲にしなくてもいい。ただ今の自分を好きなように体験していけばいいのだと思う。
こうして自分を手放してみると、なにを手放すよりも身軽で自由だと感じる。自分に対して「誰やねん」と思ってみることって、とても奥深いことですね。探求しがいのある観点です。

というわけで今日は、時間の概念を利用する「自分という存在に対する感覚を根底から覆してくれる観点」についてのシェアでございました。ぜひ自分に「誰やねん」のツッコミを入れてみてね。

それではまた、明日ね!


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)