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760/1096 『生き方』を持たない自由

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で760日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

760日目、今日もまた夜の執筆。というのも、明日は主催している『じぶん探求の会』の大切なイベントが待っているのである。できるかぎり時間の余裕を持って挑みたいため、日本の日付が変わったあと、前夜からの執筆だ。

そういえばあと17日で、777日目がやってくるのだ。楽しみだ。
読者さまとオフ飲み会ができないものだろうか。。777日のテーマはもちろん、幸運。もしなにかできそうであれば、こちらでお知らせ致します。

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みなさんには、ご自分の「生き方」というものがあるだろうか。。。
「生き方」。ちなみに、わたしにはない。いや、ダサいのかもだけど!

人の生き方を見て、「自分の生き方を考えさせられた」という人がよくいるけれど、あれを見てわたしはいつも「なぜにそげなことを考えるんだべ!」と思っていた…みなさんは、どんな感覚をお持ちだろうか。

というのも、わたしはこれまで、「生き方」というものを考えたことも決めたこともなかったからだ。今もこうして書いていて、「生き方」ってなんのこっちゃかわからない。生きるのに、やり方があるものなのだろうか。わたしは少なくともこれまで生きてきて、そのやり方みたいなものに出会ったことはない。

たとえば、人を喜ばせる生き方をする、というとき、それは人を喜ばせるのを尊び、それを信条として、モットーとして、生きるということなのだろうか。そういうことを意識するとき、「生き方」として意識するのがなぜなのかわからない。

人を喜ばせるということを、心がけていこうという決意なのだろうか。決意しないとできないからだろうか。自発的に自然にやりたいとは感じないのだろうか。これ以上言うと嫌われそうなのに言ってみるけれども(笑)、ならばやめればいいのではないだろうか。わからない。わからなすぎて、ネットで「生き方 意味」と調べてみると、次のような解説を見つけた。

「生き方」の意味は生活の方法のこと。Weblio辞書より

いろいろと読んでみると、おおむね、「理想の自分になろうとしながら生きること」という解釈をしている人が多かった。むむ…では、理想が変われば生き方も変わるということになる。

それは、生き方ではなくて単に「心がけ」のことではないのだろうか…調べてみてもわたしにはやはり、わざわざ「生き方」と言う必要性を見出すことができなかった。あくまで自分の場合はだが、心がけがあるのなら「自分は今、これこれこういうことを心がけている」と言うだろう。生涯貫く信条があるのであれば、「自分の座右の銘は~です」と言うだろうと思う。それがわたしの「生き方」ですとは言わない。それから、「理想の自分になろうとしながら生きること」は、単なる喜びだ。「生き方」として設定する必要性がないのだが…

生き方、ってなんだろう。

辞書のとおりに「生活の方法」と考えると、ちょっと違和感がある。仕事を変えたり、あるいは起きる時間を変えたりしたときに、「俺、生き方変えたんだ…」と言うのはどうなのだろう。かすかに危ないかほりがする。だいぶ厨二病寄りなのではないだろうか。

だいいち、生活の方法などと言っても、わたしは人生にも生活にも決まりきった方法を持ったことなどない。「そんなものは毎日違うがな」と思ってしまう。だったら、「わたしは毎日生き方が違います」となってしまうじゃないか!!自分のこういうところは、天の邪鬼なのだろうか。。

そうか。わたしはそれでは「わたしは自分の生き方を持っていません」と言えばいいのだろう。なんかえらくイメージが悪い気がするが、大丈夫なのだろうか。みんなは、「生き方」というものを持っているのだろうか。「生き方」なるものを持って生きている人というのは、一体どれだけいるのだろうか。

人を喜ばせる生き方、人を愛する生き方、地球を大切にする生き方、真面目な生き方、などなど「生き方」という慣用句を使った表現は、巷に億千万単位であふれている。天文学的。生き方を定めるということをカッコいいと考える。この文化のはびこり方には閉口する。ゴキブリ以上の繁殖力だ。

しかしわたしは今まで一度たりとも、「生き方」という言葉に納得や馴染みを感じたことがない。(ああ嫌われる!)

たまに「壇珠さんの生き方に触れて…」「壇珠さんのはっきりと生き方を持った姿勢を見て…」というようなことを言っていただくのだけれど、ここに正直に言ってしまうと、「なぬ?!そんなものはないぞ?!自分は”生き方”なるものは持っていないのだが!!」と思ってしまっている。ごめんだけど、本当になくて申し訳ない。

強いて「生き方」という言葉を使って言うのなら、自分は『生き方を決め(られ)ない生き方』をしていると言えるのかもしれない。『常に転がり続けているため、生き方設定をすることができない生き方』とか…!!これは人として、情けないことなのかもしれないけれど。

他者に対しても、「あなたの生き方ってどうのこうの…」などと思えないのだ。わたしがその人の一部を見たことで、「生き方」をわかった気になる方が変だと思ってしまう。多くの人はたいていが、生活のどこかに不満があったり流されていることがあったりするものだ。それを「そういう生き方なんだね」と言われても、「いや、そういうわけじゃないんだけど…」という人がほとんどだと思う。

わたしは「生き方」を決めなくてもいいと思う。
なにかに沿って生きようと考えなくてもいいと思う。それが自分の目を曇らせる気がするから。その「生き方」を意識してしまうと、日常にフレッシュに出会えなくなる。そして、それ以外の選択肢が視界から消えてしまうから。

「しっかりした生き方をする」と考えると、わたしはつい自分を追い詰める。「優しい生き方をする」と考えると、つい人に遠慮するだろうと思う。初めは喜びだったのに、気づかぬうちにその枠に自分をはめてしまって、タスク化してしまって。そういうことが、簡単に起こるのが人の心だ。

もし自分に「生き方が定まっていない」とか、「生き方を見直すべきだ」、「生き方が悪いのだ」、「生き方を設定するべきだ」と思うことがあらば、きっとそのときの自分は、人生が瞬間瞬間の創造であることを忘れているのだろうと思う。

「生き方」が定まっていないのではない。
自分が納得して喜びのうちに打ち込める仕事を見出していないだけだ。

「生き方」を見直すのではない。
これまでの自分が気づいていなかった我慢をやめて、喜びに向かう決心をするのだ。

「生き方」が悪いのではない。
自分を苦しめるのは自分の思い込みであり、そこからの習慣であり、行動だ。

「生き方」を設定するのではない。
人生はどう生きるかを決めてから歩むのではない。喜びに従って歩むものだ。

生き方って、決めて貫いている方がカッコイイ感じがする。もちろんそれが喜びならば最高だし、素敵だ!!でも、その「決めて貫けばカッコいい」という価値観にオートで洗脳されてしまってはいないだろうか?!過去の自分の定めたことに、ずっと付き合うのだけがカッコいいのだろうか。

わたしはそうは思わない。生き方ってどんどん変わっていい。どんどんってどれくらいどんどんかというと、秒単位で、瞬間瞬間で変わっていい。むしろ、常に自分にフィットするように、常に柔軟に変えられるほうが好きだ。自分にド正直に。そこに敏感に、鋭敏に。自分の変化に気が付きながら生きる。貫くべきは過去の決定ではない。その瞬間の自分の正直な思いだ。

そして、どんどん生き方を変えることに対して心が開いているということは、そのままその人の自由に直結することだと思う。その時々の自分とともに、自由にしなやかに。

「”生き方”なんてない。なくていい。それをつかもうとする手で、ただ自分の手を引いて歩く。自分のためなら、生き方も歩き方も見方も変えていけばいい…」と考えてみて。考える、だけね。言っちゃダメですよ。生き方を語る以上に厨ニ臭が漂います。

生き方、自分。それもいいよね。

というわけで今日は、「生き方」という楽しくもあり窮屈でもある一種の縛りへの固定概念を、粘土のようにこねて遊んでみませんかというお誘いのシェアでございました。よければ秋の思索の楽しみに。

それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)