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1041/1096【純粋】疑いをもつって素晴らしい

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1041日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1041日目。仕事に没頭しすぎて、美容室に行く時間を捻出できずにいる。ので、夜のうちに執筆だ!!わたしは夜行が好きだ。家から出なくたって、ネットで夜行に繰り出すのだ。

わたしはインターネットを愛している。無人島になにかひとつ持っていけるとしたら?と訊かれたら、インターネットだと答える。救助を頼み、食べられる植物や動物を調べて死亡率を下げ、雨水を飲む方法を獲得する。光通信が好きだ。大量の情報が好きだ。そこで自分を試すのが好きだ。さあどんなものにピンとくるかな。なにに騙されるかな。情報世界の扉は開いている。顔を突っ込んでみよう。今日のわたしは、なにが見たいのだ…!

わたしはスマホやタブレットやパソコンに向かうと、ふつふつと尽きない幸福感と、わが脳細胞の原子核の爆発熱を感じる。これこそ、われがこの時代の地球人になった醍醐味というものよ。わたしはネットを自然界と同じだけ愛している。人類の意識の最先端で、その底なしの知識欲の淵に立つのだ。さあ、その真白なソースの沼にダイブしろ!

今日もブログが書ける。その喜びを支えるのは、キーボードに触ってネットに繋がることができるという幸運である。ありがとうありがとう。
ああ、幸せだ。

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この毎日投稿を始めてから、わたしが非常に強い意思でここまで書いてきたイメージを持っている人もいるかも知れないと思ったので、今日はそうした”他者への美化”について書いてみようと思います。

わたしはこれまでの1000日ちょっとのうち、初めの800日以下の日々は常に迷いの中にありました。やめてしまったほうがいいのではないかと、何度も思ってきています。自分で決めたことなのに、こんなものです。

もちろん、それでも実際にやめるということはしませんでした。さすがに超えられない一線だったので、毎度のように踏みとどまってなんとかしのいできた、という感じです。わたしは「壇珠さんのように強い意志がほしい」「壇珠さんのようにズバッと答えの出せる、迷いのない人になりたい」というようなメッセージをいただくことがありますが、それは”美化”なのです。

なんでも迷い、弱さと対峙して、最終的には主に『ま、いっか作戦』、『ハッタリでしのごう作戦』、『目つぶって無理やりいくぜ作戦』のどれかで乗り切って生きています。無能だしアンポンタンだしで大変です。

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きっと多くの人が、子どものころは多かれ少なかれ「大人ってすごいんだ」「世の中を知っていて、正しい判断ができるんだ」と思っていたと思います。年上の人たちに過剰な美化があった。成長してからも、アイドルはトイレに行かないと思ったり、憧れの著名人が一般市民よりも尊いものに見えたりした経験のある人も多いと思います。

すごい人達は、自分みたいには迷わないんだ、くさくさしないんだ、諦めないんだ、逃げないんだ、くじけないんだ、ヤサグレないんだ、常にやる気があって、アイデアにあふれ、揺るぎない信念を持って使命に突き進んでいるんだ、落ち込まないんだ、弱くないんだ、俺なんかと違うんだ、と思ってしまいがちですよね。どうしても、勝手に美化した虚像を描いてしまいます。

けれども人は、生きることを学ぶにつれ、現実を知って受け入れられるようになり、だんだんとその美化がおさまっていきます。そして、どんな人にも迷いがあり、弱いところもあり、困ることや苦しいことがあるのだとわかってきます。そんな超人はいません。もうね、おなじ地球人、大差なし。これがわかると、自分だけではないのだとわかり、安心感が増します。他者への思いやりも増します。

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わたしたちが他者を過剰に美化してしまう理由は、ひとつは疑いを持てずにいるということ。もうひとつは劣等感や罪悪感や不足感です。

子どもは、他者を信じる自分を疑うことができず、なんでも信用してしまいがちですが、これが大人を美化する感覚にもつながっています。お前たちよりわかっているんだ、という態度で接してこられると、疑わずにそのとおりなのだと思ってしまいます。

そしてわたしたちは成長する過程で、疑うことを覚えますよね。これは良くないことだと考えられがちですが、現実を見る力にもなるのです。これは他者を過剰に美化せずにそのままを見ることにつながります。これができない人は、盲目的な思い込みが多いのですね。これがひとつ目の理由。

もうひとつは、劣等感や罪悪感や不足感など。なにかの点で自分を低評価している人は、その点で高評価できると思える人を過剰に「すごい」と思ってしまいがちなのです。こういうときわたしたちは、自分をまったく信用せずに、他者の言うことばかり信用してしまいがちです。洗脳されやすい状態。この、自分を駄目だと思っていることが、ふたつ目の理由です。

現実を見ていないために疑いの目を養えていない人、自分を低評価していて簡単に洗脳されがちな人が、他者を美化しやすいのだとわかります。シンプルに言うと、他者や自分についての思い込みが激しいのです。

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わたしたちは、なんでも鵜呑みにして信用してしまう子どものような人を、「純粋だ」「汚れがない」と評価して、それを良いことのように扱います。そして、その逆で疑いの目を持つことを薄汚れているというように悪く扱いますよね。しかしその常識的な通念に疑問を持ってみると、生きる感覚がちょっと変わっちゃうくらい、価値観が変わります。

疑いを持てるって、素晴らしきことだとわたしは思います。
それは、思い込みを抜いてあるがままの現実を見るための、心のレンズのクリーナーのようなものではないでしょうか。

もちろんなんでもかんでも手当たりしだいに疑うほうに偏ってしまうというのも問題です。たとえば常に浮気を疑っているような人。そういう人は、「外側は疑え教」の信者。外側のことしか疑わず、内側、つまり自分を疑うということができません。それから、必要なときには信じる、ということができない。疑いをフェアに使うための胆力や自尊心に欠けているのです。

疑うのはそもそも、信じるためなのだということが理解できていないのですね。公平に疑う人は、信じるべきものを信じるために疑っている。

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なにが伝えたいのかと言うと、「疑いを持つ」ということに、良くない、汚れている、性格が悪い、などの悪い評価を持つ必要はないということ。

疑いは大事です。真実を知りたい者たちにとって、必須のサーチライト。本質を探るための、最も大切な道具です。どこに行っても聴いた話を鵜呑みにして信じ込むような人よりも、きちんと疑える人のほうが信頼もできます。
これを、純粋だとか汚れているだとかいう問題にすり替える必要はないということです。鵜呑みの原因は、純粋さではなく、無知なのです。

誰かに持っている印象を疑う。
自分への評価を疑う。
絶対的に信じているものを疑う。

こんなふうに疑えるほうが、対象へのより純粋な好奇心を持っているとも言えますよね。本当のことが知りたい!というとき、疑いは必須であり、浄化であり、意識の拡大に向かう面白み満点の知的活動です。

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わたしたちは、生きて経験を重ねていく過程で、より脚色のない現実を見て心のレンズの曇りを取り去ることもできれば、現実を美化したり卑下することで、思い込みを増やしてますます曇らせることもできます。

「疑うなんて良くない」という常識に染まってしまわずに、フェアな判断のために必要な検討をするという意識で、あるいは思い込みを破壊して真っ直ぐに現実を見るための自分自身との楽しいディベートだという意識で、疑いを上手に運用しましょう!

というわけで今日は、疑いを面白がれ!というお誘いのシェアでございました。疑いの目を持つ自分を、不当に低評価しないであげて。そして信用するのと同じだけ大事な道具だと考えてみてね。

それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)