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858/1096 弱いままで生きる安楽

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で858日。

※この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。

858日目…間違いない…自分はこうしてブログを書くことに対して、すでにある程度の依存がある。まぎれもなく、これが習慣となっている。そこにハッキリと実感を持つまで、自分には850日以上も必要だったのか…!!

なにかを本気で858日間継続して行うことの威力よ。その毒性よ…!!それは真性の三日坊主の怠け心を蝕み、毎日のルーティンを習慣に変えるほどの劇薬なのか…!このままいけば、三年間の絶え間ない連続投稿のあとには、必ずや執筆行為への激しい中毒症状に見舞われることとなろう…

先がひたすらに、楽しみだ。

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わたしは昔から、他の人を見ていると、いつもいつも「どうしてそんなに強いのだろう」と思います。みなさんにも、そんなことがありますか。

嫌なことでも、我慢して続けられる人。どうしてそんなに強いのだろう。わたしは自分が嫌だと思ったことができないのを、随分と長い間、恥じてきました。嫌なことを我慢してやったのは、学校に通うので精一杯でした。

以降は、嫌なことのために朝起きたり、電車に乗ったり、じっと我慢して座ったり、適当に話を合わせたり、ということができなくなりました。そのために一文字書くということもできない。立ち上がることもできない。

それが、耐え難いほど嫌で嫌で仕方がなくてとか、辛くてどうしようもなくてとか、悲しくてたまらなくてとかいうことのためではなく、もう心がPーーーーーと真っ白で、動く命令ができないのです。どうしてもできなくて、脱落ばかりしていました。そして白い目で見られる。

そんな自分は、敗者決定戦に出ることすらできない。なぜなら生まれつきの敗者だから。と思って生きていました。診断されたわけではないので言い切ることはできませんが、きっと嫌なことができないのはもともとの性質もあり、頭真っ白の原因は、鬱のようなものがあったのだと思います。

そういう状態だと、仕事ができないだけでなく、恋愛もうまくいきません。人間関係の構築ができないし、なにをしてもすぐに飽きてしまうし、部屋から出たくないし、料理やお風呂なども全部大変になってしまうのです。

今それが治ったのかと言うと、やはりわたしは医者ではないので自分の独断を伝えることしかできません。ただ、毎日安定して意欲があって、もう自分をせめて苦しむことはなくなり、毎日が幸せです。多少の妥協や困惑、ちょっとしたジレンマや怖れを抱えながら、家族を持ち子どもを育て仕事をすることができています。このままで文句はなく、もちろん変化を面白いと感じるし、長く長く生きたいと思うほど人生が好きです。だから、診断してもらわなくてもいいと感じます。

わたしがこうなったのには、自分の一切をそれでいい、それで仕方ない、それがわたし、そういう生物、そういう創造物、神の創ったもの、と思うようになってからなのですが、そこに至ったのはただ自分を見るようになってから、です。やったことは、自分を観察していることだけ、でした。

見ていると、いろんな自分がいます。
怖がっていて、自分に常に常にダメ出しをしていて、直すべき所だらけだと思っていて、楽しむ資格がないと思っていて、調子に乗っちゃいけないと思っていて、それらの思いのせいで、一日のうち大半を、あまり安らかではない思いをもって暮らしていました。

でも、見ていると、この人物は子どもの頃はあんなにも未来を夢見ていたのに、どうしてこんなふうに怯えて生きることになってしまったのかと思いました。

人生そんなに、長くなどないのに。
直すべきところだらけだと思って生きたからと言って、変わったりなどしないのに。
自分に責められて、少しも楽しくなんかないのに。
自分は自分に責められても、黙って自分で居てくれているのに。
わたしは、どうしてこの人を、こんなに虐げて生きているのだろう。わたしにそんな権利、あるのかな…

そう思ったらいたたまれなくなりました。
自分くらいはこっそり、自分のことを許してもいいじゃないか。
誰も許してくれないのだから、自分だけは。
わたしの心の中は誰にも見えないんだから、こんな自分の味方をしてこの先を生きてみよう…

自分さんをもう、イジメんの、やめた。。。。。
今まで責め続けて、それでもついてこさせて…
自分はこの命に対して、なんと冷酷だったのだろう。
ねえ、死ぬほど、ごめん・・・・・・

そう思ってからわたしは、自分さんをかばって生きています。味方をして、補ってあげて、助けて、楽しませて。わたしだけは、自分に”変われ”なんて言わないで。この身体や思いを、この世でいちばん大切な人のそれとして、徹底的に味方をして、愛して。そうやって自分をかばって生きて死んでも、いいよな…!と思ったんです。

さて、この人の世話をして、この人をかばって生きるぞ。
背負ったぞ請け負ったぞ。いつもこの人と一体だ。大事にするぞ。
そう思いました。

この人物はなーーーにしろ、弱い!!弱いのです。
そして自分はそれを直そうとはせず、弱い人として生きています。
これが楽しい。意外と楽しいのです!!

強くならなくていいので、弱いなりにできることをどんどんやればいいと思うとかえって前向きに。。。それから、他の弱い人達がウェルカムのカモーンになるのです。愛しく思えてしまいます。

わたしは弱いので、人が世話をしてくれないと生きられません。
だから、そういう人がいなくなったら自分はコケます。
死ぬやも知れません。でも、そういう人として生きています。

それから、車の免許がありま千昌夫…
だから、だれかが助手席に乗せてくれないと、自分は徒歩圏内にしか行くことができません。でも、そういう人として生きています。

あと、過集中が起こると他になにもできず、お湯を沸かすのが困難です。
でも、そういう人として生きています。そんな自分の特徴とともに生きています。ちょっと、発達障害があるのだと思うのですが、それも診断を知りません。このことで責めていても悲しく生きるしかなくなってしまうので、わたしはそのまま、これに付き合ってこれを楽しんで生きようと思うんです。

過集中や弱いところを、自分でいたわってあげよう、これに付き合って楽しんでいこうと思ってから、周囲もそんなふうに変わってきました。こうして何年かの間、いろんな自分に対して「そのままで付き合っていこう」と思えてから、自分を責めてばかりいた人生がパタン。。とひっくり返ったのでした。

わたしは仕事柄、自分を受け入れられないというお方からのご相談を多くいただくのですが、それでいいのだと、わたしは思います。受け入れられないのを受け入れられるように変えなくてはならないのではなくて、受け入れられない自分に、肩を貸して歩く。手をつないで歩く。悲しんで泣いていたら、ハンカチを貸して。そんな自分を、いたわって。

自分に優しくするというのは、こんなにシンプルなことなのです。
ただ、その自分を、砂場で遊んでいる子どもを観るようにして眺めているのです。なにを作ってもいい。転んでもいい。わたしがついているから、好きに遊んでいい。そうやってこの世を生きて、死ぬときだって一緒に死んで、一緒にあの世に行けばいい。

そんなふうに生きるようになって、いつの間にか楽になっていました。
そうなってから、壇珠さんは強いですねと言われるようになりました。

でも、弱いままのわたしが、弱いままで楽しく生きているだけなのです。
どなたか、ご自分の弱点を責めて苦しくなってしまうという人に、この観点が役立ってくれたらと思います。

というわけで今日は、わたしは弱いことを楽しんで生きていますよ、という自分の生きる感覚のシェアでございました。響きあえる人がいますように!

それではまた、明日ね。

【『壇珠さんに ”愛”について 聞いてみる』イベントのお知らせ】

旧正月の明ける2月12日、
バレンタインの直前に
イケメンアーティストの
大島 ケンスケさんと

””愛””について語るという
素晴らしきイベントを行います。

そんなこれからの愛や恋や性について、
イケメンアーティストのケンスケさんと
90分のライブトークを行います。(好きな話題!w)
 
募集は2月の1日からです!!
お楽しみに!!!


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)