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754/1096【断捨離】去り続け生まれ続けるあなたに…

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で754日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

754日目。おや?!今日気がついたのだが、あと少しで777日目ではないか。スリーセブンのゾロ目が楽しみだ。

サポート費を送ってくださるみなさんに、ここで深謝をお伝えいたします。
送ってくださったお方はこちらの記録に残るのですが、おひとりおひとりに幸と豊かさが降り注ぐことをお祈りする大祈祷をお送りしています。効くやつです!!(笑)本当に、ありがとうございます。

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今日は久々の断捨離欲が燃え上がった。デジタルデータやラインのトーク、スマホのアプリにさよならして消しはじめた。このあと衣類や靴などなどなどにもクリーニングを施そうと思う。

ラインのもう使っていないトークを見ながら、懐かしいチャットを微笑ましく思った。思い出の切ないところは、それがもう終わっているということだ。トークをキープしても、もうそれは終わっている。会話を保存しておけば失われない気がするなにか。それはもう失われているのだ。すべての過去はもう、終わったこと。

「ああ、この会話懐かしいな、楽しかったな!!消さないでおこう」と思っても、それは終わってしまっている。わたしは人生を彩る思い出たちと、出会った途端に別れている。こんにちはさようなら!こんにちはさようなら!というふうに。この今の瞬間の経験に今出会い、その経験に今この場で別れている。やあ!じゃあね!やあ!じゃあね!やあじゃあねやあじゃあねやあじゃあね…と。出会いと別れって、真逆のことでありながら、しかし同時に起こっていることなのだ。生まれた瞬間に死が決定するように。

わたしの父や母や娘や前夫や夫は生きている。でも、もう彼らの過去は、彼らが現在生きていても帰ってこない。亡くなってはじめて、その人の過去が帰らないのではない。生きていても、常に常にさよならしている。

彼らとの過去の思い出も、もうすぎて終わったことだ。わたしが忘れなければ終わらないような気がするなにかも、終わっている。時間が流れるというのは、なんと切ないことだろう。

もちろんのことだけれど、これはなにも人間に限ったことではない。地球だってその覚悟だ。空の星々だって。美しく、なにもかもを悟っているような佇まいの、大きな樹だって。ずっと今の瞬間に別れながらこの次元にいる。やあ、やあ、やあ、やあ、さよならさよならさよならさよなら…

わたしたちは、みんなで一緒に、この自分たちの存在の瞬間瞬間に、出会いながら別れながら過ごしている。みんな…みんなよ…!俺たち切ないね。

でもこのことを、まったく反対から見てみるとどうなるだろう?

わたしたちはずっとずっと常に常に常に、なにかに出会い続けているのだ。
別れて脱いで捨てては、さよなら、やあ!さよなら、やあ!さよなら、やあ!じゃあねじゃあねじゃあね…よっ!よっ!よっオラ自分!とね。

いつもいつも出会っている。常に出会い続ける人生だ!!

いつだって、ハローニューモーメント!ハローニューワールド!ハローフレッシュユニバース!!だ。オッス!オッス!もう新しい瞬間ですね!って言っている間にも、もう新しい瞬間ですね!!

するとなると、わたしたちは自分の人生の時間について、どう考えることができるだろう。二度と戻らぬ別れと見て途方もなく切なく感じることもできれば、いつだって未知に向かっていると見て好きなだけわくわくすることもできるのだ。そこはね、ご自由に♥ということなのだとわたしは思う。

だからわたしは、自分の感覚をシーソーに乗せる。別れて別れて別れていて寂しい。でも、出会って出会って出会っていて嬉しい。いつもどちらかが大きくなるから、シーソーはいつも揺れている。

どっちも本当の感覚。どちらも捨てがたいものがある。どちらも捨てないでどちらにも開くとき、「ああ!!二度と帰らぬということの美しさよ、そこからわかる、今というものの貴重さよ!」と思う。

この世を去りゆくわたしたちはみな、常に瞬間瞬間を終えながら、常に新しいものに出会っている。愛するものとの別れは寂しいけれど、その人が旅をしながら「おおーいまた新しい景色見てるよー!!」と言っているのだと思うと、切な嬉しい。

別れゆく自分自身のこの地球での旅も、そんなふうに進んでいる。わたしはたまに、過去の自分に心から声をかけてみる。

「おおーい!時空を超えて話しかけてるよ!あのね、わたしは新しい景色を見てるよ!その壇珠さんは当然だけど居なくなっていて、別の壇珠さんになってるよー!お楽しみに~~」と。そう声をかける時の気分を、今創り出してみる。

その時に感じ取るものはなにかというと、未来の自分からそれを言われた、今の自分の感覚だ。

過去も未来も今にある。未来の自分から見た今の自分は過去の自分。そう、今の自分の創り出す瞬間に、『今』、未来の自分という設定からからなにかを発すれば、『今』、過去の自分という設定でそれを受け取るのだ。

そうするとね、思うのです。

壇珠さんの人生よ、いつもいつも、バイバイ…

あなたとはずっと一緒だと思ってしまいがちだけれど、どんどんお別れしていますね。自分のものみたいに思ってしまいがちだけれど、壇珠さんはどんどん今を終えていってしまいますね。

ちょうど季節が変わるのを止められないのと同じように。わたしの心が追いつかなくても、壇珠さんは去っていってしまう。ならば、壇珠さんは自然の一部だね。宇宙の企みなんだね。わたしの知らない、神の計画なんだね。どうしようもないんだなあ。

今の自分よさようなら…!あとになってみれば過去として振り返る今よ、さようなら!!(哲郎を置いていくメーテルの気分で)
君を捨てて、わたしは新しくなっているんだね。

断捨離をするのは、もう気がついている別れに改めて新鮮な目を向けるということだ。本当はすでに帰らないもの。本当はもう自分ではないもの。もう終わっていて、そばに置いておいても二度と帰らないもの。

それらに今、新たに出会い直してみる作業だ。

過去の自分が愛したなにか。
その当時とは変化したそれを、変化した自分が新たに愛し直したいのか。
生まれ変わった自分に、ほんとうに必要なのかどうか。
そこを見てみて。

時間の概念をリフレッシュして、自分というものを常に別れ常に新しいのだという認識に触れたところからの断捨離は、とても楽しいものです。

今のあなたは「新しいあなた」なのだという自覚が薄まっていませんか。
自分に自分の過去像を着せていませんか。

変化を望む人こそそれを脱いで、「さあ新しい自分になにを着せる?!」と思ってみてね。「今まで通りでいなよ。一生それでいなよ」なんて自分に言われたら、「失礼しちゃうわね!!」って言わなきゃダメですよ。

(そんなに好きではないけれどもったいないから捨てられない、というものが多い人は、実はそれを買った当時の自分の価値観を責めていたりします。「無駄をしてしまっていた」「判断が甘かった」「ボロになるまで使わなきゃ」と感じているものこそ、捨てたら無駄を認めるみたいで、お別れできないものですね。でも、当時のことはもういいのいいの。それでよかったのです。)

というわけで今日は、時間の概念についての思索と「出会い直す断捨離」についてのアイデアのシェアでございました。好きなように解釈してね~

それではまた、明日ね!


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)