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966/1096 シックスセンスを磨いてみよう

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で966日。
※この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。

966日目。さてたまには(?)真面目に書きます。今日は伝えたいことがあります。この記事にご縁のある方へ。

いきなりなのですが、この世は苦だと捉えることができます。ここは、いかなる苦もがきれいにひと揃い揃っている、宇宙一の地獄です。だからこそここは、いちばん強く幸福感を認識することのできる場所でもあります。これがなにを意味するのかって、この世が自由だということなのですね。

この世界は自由です。どんな苦だって用意されていて、体験できるようになっています。そしてどんな苦にも抜け道があります。どんな環境にも苦は見いだせるし、そのどの環境にすら幸を見出すことができます。そして、ただただ至福を体験することもできる。わたしたちは、そんな無限の自由を経験しにここに来るほど、柔軟で自由な生き物です。

これを読むあなたは、そんなわけで、すごい生物です。

その自由はね、この生身の身体を持っていると、なかなか充分に使いこなせません。でも、この生身の身体がないと、それを”使う”という体験に至れないのです。これは、途方も無いことなのです。

そしてまたその自由は、使えなくていいのです。使えないでいる必要があって使えないでいます。だから、自分が少しでも多く使ってやる、というふうに競争しない。なんでも戦おうとしない。なんでも上を目指さない。競争し戦う自由もありますし、それを十分に楽しむこともできますが、自由について”戦う”というのもまたナンセンスです。一旦今の場所に帰ってきて、「ああ、自由うんぬんがどうであれ、とりあえずここに自分はいるのか」と思ってみる。するとそこから、それらを”使う”ということが開きます。

自由を諦めて自分に返ってくると、自由の扉の前に立つというわけですね。

今はなにも自由を使えない。たくさんの制限の中にある。けれども「今すでにその自由を使える可能性を完全に備えている」ということに、使える前から喜ぶこと。これが、今のあなたを無条件にそのまま愛することにつながります。今の地球人のミッションでもありますね。

秘行のコースを受けるなどして秘行を体得しつつある秘行者さんは、いつもそれを極めることを目指して楽しんでもよく、かつどこを目指しても、自分には今の自分しかいないことをいつも覚えておいてください。それがあなたの”観”を開いておいてくれます。無駄な抵抗はなにも要らないのですが、無駄を面白がると開きます。

そんなにも自由な世界で、わたしは今日もブログを書きます。みなさんもそんなにも自由な世界にいてこれを読みに来たのですね。よき選択ですね!

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この話を書く前に、ひとつお断りを入れさせてください。わたしはいわゆる”霊感”というものがあるわけではなくて、霊は見えないし、除霊もできないし浄霊もできないしエクソシストでもないし、ふつうの人です。

なので霊の話ではないのですが、でもちょっと変な話を書いてみようと思うので、そういうのが苦てなおかたはここで画面を閉じてくださいませ。

こういうことを書くのはちょっと勇気がいりますね。変な人だと思われるのが必至だからです。でもまあ良いのです。今日は書いてみようという気持ちになったので、この勢いでいってみます。

🌊

わたしは一度、イタリアの海で不思議な人物を見たことがあります。

一応、人間でした。人間の姿をしていました。と言うのか、人間をやりに来ていました。そういう意味では、すべての人がそうですが、笑

その人は少し幼さの残る、若きイタリア人青年でした。カッコいいとかセクシーだとかいうのとはまた違った、とてつもなく美しい姿形をしていました。もはや人間であるのも非常に不思議なくらいでした。彼を発見して、時が止まったようになりました。

イタリアのビーチでは美男美女をこれでもかというほど見つけることができます。だから美しいだけでは珍しくはないのですが、その青年は遠目にもぎょっとするような不思議な存在でした。

そのなんとも言えない神々しさから、この生物に性別や体重があるということがまるで嘘のようでした。地球人として言語を使えるのも、まさに仮りそめの役柄という感じがありました。

彼は目で見るかぎりでは二本脚の普通の人間なのですが、ちょっとでもその「目で見る」というところから気を抜いてしまうと、独特の光をまとっているのが「観え」ました。液体と気体の中間のようなものが細かい霧のように寒天のように身体を覆っていて、うっすらプラチナ色に光っていました。

気体のように軽い、水銀のようにとても軽い金属と軽い水が混じった液体のような液体のようなものに覆われて観えるのです。その「液状の気体」?は言葉を尽くしても説明のできないものなのですが、彼はカエルの卵のようなほぼ透明なものの中にいるような感じで、でもそれは空気のように軽く、それにはダイヤモンドの粉のようなキラキラが混じっており、表面がゆらゆらとうっすらと、プラチナ色に光っていました。

彼の存在はまったく異様でした。そのように光っているうえ、目や髪や顔の造形にいたるまで、この世のものとは思えないほど、とてつもなく美しかったのです。驚くほど長い腕と脚、砂丘のように美しい肌、水色のクリスタルのような目。金色の繊維のような髪をフワフワと風に揺らして、地上の悩みを湖面のように静かな目で穏やかに閲覧する、楽園を遊歩する存在でした。

わたしはその存在を、脳波が停止したように見つめました。なんとなくだけれど、彼は人間の身体をもってはいるが、人間ではないのだろうと、薄ぼんやりと思いました。

そこでなにが不思議だったかって、砂浜にいる誰もが、彼に少しも着目しないのです。まるで彼の姿が、誰にも見えていないかのように。わたしは周囲の人々の顔を眺めましたが、誰一人彼に着目している人がいないのです。それは、なんと異様な光景でしょう。

彼を見たとたん、「目で見て」、「常識に照らし合わせて」、「言葉を使って考えてみる」、というような人間らしい活動が、ピタッと止まったような感じがしました。まるでやり方を忘れてしまったかのように、停止してしまいました。

そして、第六感だけを働かせているような感覚になりました。これは、ただ世界に気がついているだけの、もともとの感覚です(わたし達の誰もが日常的にやっています)。それは特別な感覚ではなくて、裏でずっと発動している感覚です。そのうえでわたしたちは、「目を使って見る」ということをしているのですが、そのほうがずっと、わざわざやっていることであり、とても人間らしいやり方なのですね。

わたしたちが「ものを見る」と考えるとき、実は目だけで見ているわけではありません。わたしたちは、目だけでものを見ているわけではないのです。

なにかを食べるとき、香りを完全に遮断すると味が感じられないのをご存知の人も多いと思いますが、味というのが実は舌だけで味わっているわけではないのと同じで、見るというのも目だけでやっていることではないのです。

わたしたちは、

鼻を使わなくても、匂いを嗅ぐことができます。
また、匂いはわたしたちの存在ぜんぶで嗅いでいます。
舌を使わなくても、味を味わうことができます。
また、味はわたしたちの存在ぜんぶで味わっています。
耳を使わなくても、音を聴くことができます。
また、音はわたしたちの存在ぜんぶで聴いています。
目を使わなくても、ものを見ることができます。

見るという行為は、わたしたちがわたしたちの存在全部でやっていることなのですね。

わたしがわざわざ目で見ることに集中するモードで彼を見ると、彼はただの美しきあどけない青年でしたが、その強制を解除して見ると、やはり光っていて、さらには彼独特のレーダーをもっているのがわかりました。(このあたりからだいぶわたしの変な人度が上がってしまいますが…)

レーダーは通常の地球人が思い込みで狭めて使っている「なんとなく気にする」というやり方とは違って、広範囲で注意を向けて、自分に向かっている注意を感知するようなものでした。彼はこちらにやってきて、わたしに気が付いてちらりとこちらに視線を向けましたが、「気にして見た」というよりはただ「カメラを向けた」ような感じでした。

そして彼は、サラサラとした砂の上を、少し浮いたようにしながら、ふさふさという音をたてて歩いて離れていきました。間近で見ても、異様な「偽地球人」感がありました。

彼についてわたしは、なんとかチャイルドだとかいうネーミングは気にしませんし、それを知りたいとは思いません。この体験に、名前も答えも要らないと感じます。そういうふうに、ファイルに名前をつけて、既知のフォルダに片付けなくていい。

ただわたしに面白い感覚が残っている。これがそのままでいいと思うのです。不思議なものを見た、よき体験でした。

🌺

不思議なものに心をひらいてみたいと感じる人は、ものを見るということを、不思議な体験にしてみてください。

どうやるのかというと、いろいろなものを、普段忘れていることを思い出したまま見るのです。

ここが宇宙空間の真っ只中なのだと思い出す。自分が宇宙に生きる宇宙人であることを思い出す。

自分が宇宙という神聖なものの構成要素であることを思い出す。
その点で、あらゆるものと平等な存在であることを思い出す。

こんな感覚をもったまま、外を歩き、地上を眺め観察する時間を作ってみてください。あなたはこの惑星の表面を、真新しくその視点で見てみてどんなことを思いますか。

もちろん、言葉に出して言わなくていいですからね。
わたしは宇宙の構成要素。このちり紙だってそうさ。その点で俺とこのちり紙は平等だ。わかるか…そう考えたら、この世のあらゆるものが完全に平等なんだぜ…などと言うと、親しい人が減ります。笑

こんなふうに見慣れた景色をいつもと違う感覚で眺めていると、普段見ているのとは見えかたにギャップを感じますよね。そのギャップをもってものを見ていると、ふとそこに不思議なものが入り込んでくるかもしれません。

これはひとつのシックスセンスの磨き方です。
不思議なものが見えなくても、良い形で勘が鋭くなったり、気づきが訪れやすくなったり、ものを大きな観点で捉えられるようにもなります。

幽霊など見えなくていいので、このように実生活にも役立つほうがずっといいですね。

というわけで今日は、ちょっと怪しい変な話と、誰にでもできるシックスセンスの磨きかたのシェアでございました。

それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)