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25/1096 【恋の話】愛を探すあなたへ

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。
3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で25日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくない人は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

25日目がやってきた。今日はなんだか、毎日毎日ご苦労さまです、と自分に言いたい気持ちが出てきた。これをもしわたしがどなたか他の人に思う場面を考えてみると、毎日淡々と畑作業をしている人とか、新聞を毎朝届けてくださる人とか、そういう「毎日欠かさず何かをしている人」に向かって思うことだ。自分で自分自身にそんな印象が芽生えてきたのだと思うと、とても嬉しい。

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「25」というのはなんとなくいい数字だなと思ったら、小学校の頃に好きだった男の子の、野球クラブの背番号だったのを思い出した。
だから今日は、恋について書いてみるとしよう!
 
運命論や占いやいろいろなものを持ち出したら、恋はそんな風に単純なものではないよ!と言われてしまうかも知れないが、わたしにとって恋とは、自分の欠乏感をくっきりと浮き上がらせるリトマス紙のようなものだ。
それから、自分を含め人というものを、生きることを愛でるための素晴らしいキッカケだ。

好きな人が、自分のことを好きだと言ってくれたときの、あの喜び!
相思相愛の歓喜ときたら、あなたのお住まいは?と聞かれたら思わず、楽園です!と言ってしまいそうになるほどのバラ色の陶酔感だ。
わたしは今になって、これは自分で自分を愛せた時の喜びを、バーチャル体験するものなのだと知った。恋はワンダフルでアメージングだと思う。
 
若かりし頃、わたしは好きな人ができると、思いっきりその相手に依存してしまっていた。今思えばだが、彼に恋されていれば完全体、という感覚だった。それを失えば、また自分で自分に感じている欠乏感に木枯らしが吹くのを感じなければならない、といった状態だ。彼から興味を持たれなくなったら、自分の魅力のないことが確定してしまうと思っていた。
 
成熟した大人の恋だったら、もちろんあんなに依存することもないし、束縛する必要もないのだと思う。しかし、わたしはいつも、大きな欠乏感があって、彼氏がいなければ何のために生きればよいのかわからないと思うほどだった。
そんな自分が最低最悪に嫌だった。心底情けなかった。

100万回も夢見たと思う。誰にも依存せず、自分ひとりでも心が満たされていたらどんなにいいだろう、と。
そうしたら、もう、電話が来ないからといって一分一秒を永遠のように待たなくていいし、彼が言った一言を気にして1週間も暗い気持ちでいなくていいし、会えなくなっただけで食事も喉を通らないなんてことにもならずに済むのだから。

誰かと関係が生まれても、少しも束縛の必要もなく、相手が誰を愛そうとも微かな嫉妬もなく、どこで何をしていようともどれだけ会えない時間が長かろうとも気にならず、一緒に居ても居なくても幸福感に微塵の差もなかったら、わたしはこんな泥のような自己嫌悪から解放されるのだ。
しかし同時にその暁には、わたしは誰のことも求めないだろう、きっと誰にも恋しないだろうと思った。なぜなら、それはもはや恋愛感情ではないと思ったのだ。恋ではなく、ほとんど神の愛だと。特定の相手に対するこだわりはなくなり、彼氏・彼女という概念すらも消えてしまう。

わたしはそれを求めるからこそ、己の欠乏感といつも戦っていた。
そのため、どこか破壊的な恋しかできなかった。好きな人ができると、その相手を追い求め、自分を見てもらおうと努力し、いつかは逆転して自分を追い求めてもらいたいと願っていた。

「今はわたしが惚れた弱みで相手に合わせているけど、いつか彼がわたしを心配し、ヤキモチを焼いて、どこにもいかないでくれ!と懇願し、跪いてわたしが辟易とするほど愛を誓ってくれたらいいのに!」と・・・

つまりこれは、飽きたい、ということだ。ベタ惚れになっている相手に飽きて退屈することを望んでいたのだと思う。相手が自分に依存することを望み、逆転ばかりを狙っていた。魔女的な発想である。
それが高じて、相手の言動に惑わされない自分を夢見て、いつか、もうドキドキもソワソワもアセアセもしない、そう、不動の精神を持った不動明王となってやると思うようになった。
恋=不動明王マスターへの道、という図式だ・・・
 
わたしなりに、この不動明王マスターの厳しい修行の道に入ってわかったことがある。それは、恋する相手との関係に心を奪われていても道は閉ざされるばかりだということ。

愛されようとしてこちらから追えば追うほど、こちらの惚れた弱みが強まってしまう。それはたやすく解ることだが、その逆をやっても結局は同じなのだ。どういうことかというと、では追うのが良くないのだろうと考え、しばらく自分からの連絡を控えるとか、自分から会おうと誘うのをやめてみるとか、押してダメなら引いてみな、を実践してみるということだ。
しかし、これをやってみてちっともうまく行かなかったという経験がある人も多いのではないだろうか。

なぜどちらもダメなのか。それは、どちらも「相手との関係」に注力しているという点で、同じだからである。
 
わたしがこの修行において、ぺーぺーの平修行僧から抜け出すことができたのには、いつも繰り返しとなってしまうが秘行で自分で自分を恋し愛していることに気がついたから、であった。
相手との関係は、自分と自分の間柄をそのまま鏡に写したように表していただけだった。バカか!というくらいに、本当にそうなのだ。

人はよく、わたしはまだ自分を愛せない、と言う。
しかし、そうではないのだ。すでにどの人も、自分のことを途方もなく、人智を超えて無償に愛しているのだ。ただただ、この言葉以上でも以下でもなくこの言い回し通り、「すでにそうだった、と気がつくだけ」なのである。

生きている、それだけで人は幸せなのだ。心を鍛錬して、そこに「到達する」のではない。到達する場所などなく、すでにそうなのだ。これに気がつくだけのことなのと同じように、自分が自分をこんなにも仏の愛で、悟りで、無性にすべてを受け入れて愛しているということに気がつくだけのことだったのだ。
何も見当たらない地面の上を、己の己に対する愛を求めて懐中電灯で一生懸命探していて、はたと気がつくのだ。その地面が愛だったと。
あなたを乗せて、いかなる迷いも悲しみも、あなたが愛を見失うという自由さえも乗せて、あなたをただ受け止め続けているのは、他でもないあなた自身なのだ。自分を愛せない、ということに苦しむのは、あなたがすでにあなたを愛しているからだ。
 
その愛に気がついた時の深い懺悔と喜びたるや、恋の相思相愛の歓喜を超えるものである。もう、そこには、相手の存在に依存している自覚はなく、その歓喜をそのまま丸ごと不安に変換する前提自体がないからである。
 
それからのわたしは、相手を「愛でる」という感覚になった。不動明王には程遠いが、それでも、もう昔のように相手の愛を失うことを恐れずに済むようになったのである。良きことであった。
 
ちなみに、不動明王マスターである女性をひとり挙げるとすると、それは叶恭子氏である。嫉妬という感情はもちろんのこと、浮気という概念からも自由で、去る者は追わず、恋愛は独占欲からではなくシェアの精神だという恭子氏。彼女を見ると、真に幸せそうだと思う。わたしの最も尊敬する人物のうちのひとりなのだ。
 
最後に、恭子氏の名言を・・・
 
「わたくしはいわゆる恋人というカテゴリーを持ちません。「僕って何?」と聞かれたら、あなたが自分で考えて決めて下さいといいます。
ですから、「浮気」などという言葉とも無縁です。
どの瞬間も新しくフレッシュなラブがそこにあるのですから。💋✨」
 
「わたくしの心をすべて奪われて、頭がおかしくなるくらいの恋愛をいちど経験してみたい。わたくしはおそらく相手を深く愛したことがないのでしょう。その前に飽きてしまうから。💋✨」

不動明王はファビュラスです・・・・

というわけで、今日はこのあたりで。また、明日!

 
 
 

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)