【往復書簡】不動のごとく愚かです
上の圭吾さんの記事へのお返事です。
おはようございます!こちらヴェネツィアは昨日、初雪が降りました。外はとても寒いです。けれどもわたしは文明の利器「オイルヒーター」を利用して暖かく過ごしています。この発明に感謝。人類の大脳新皮質に感謝。過去に生きた先人たちに感謝。北京原人にも、クロマニョン人にも感謝!!おかげでわたしはこうして暖かいです。
われら人類の生きるこの「今」は、太古の時代から脈々と続く人類の歴史や自然の環境や天体の影響などなどなど、すべてのものとのコラボレーション創った共同制作品ですね!!みーーーーーーーんなで生きて死んで生きて死んで生きて全員で創った「現在」ですよね。これに関わっていない人は歴史上ひとりもおらず、現在の我々ももちろんそうなのだと思うと感慨深いです。
「今」という瞬間を、全宇宙の共同傑作品だと思います。どんな傑作アートも、この宇宙の「今」という傑作品の中の一部分でしかないと思うと面白いなと思います。
わたしは特に呼称のある職業についているわけではないので、誰かから「どんなお仕事をされているのですか」などと訊いていただいた機会には、「『今』の創作に関わる職についております」「『現在』の制作に全人生を掛けております」などと言えばいいような気がします。「一体なんだその仕事は?!君は嘘をついているのだろう!」などと言われたら、「いいえ、嘘どころか、これがこの世の真理というものです」などと言って立ち上がって去ればいい気がします!!さすれば、「あ、えーと、仕事のような仕事じゃないようなことをして遊んで生きておりますぅ」などと中途半端な笑顔で言うよりも、孤高の奇人としての印象を強め、カッコよく去ることができるかも知れませんね…!!
昨日、本田宗一郎さんの講演動画を見ておりましたら「将棋の歩は、敵陣に入れば金になる」と言っていて猛烈に感動しました。歩兵という捨て駒代表みたいな存在も、敵地に入れば金(ゴールド)になる。私は、自分のことを歩兵みたいに感じております。飛車や角に憧れている歩兵。しかし、この歩兵は一発逆転を全然諦めていない歩兵でもあります。人生に大事なのはガッツであります。感染病の影響で濃厚接触が禁じられておりますが、あなたの心に濃厚接触。他者というアウェイに乗り込み、濃厚接触を試みる時に元気になります。この往復書簡も、歩兵の腕の見せ所であります。金になれるのか、無駄死にをするのか。
本田さんの言葉は素晴らしき名言ですね!!わたしはこれを、「歩は戦ってこそ金になる、自陣にいたのでは歩のままだ」という意味なのだと思いました。これは、「自陣で安心しているだけでは、歩は歩のままだ。安心しかないところにいたのでは、真の力が発揮されない」ということだと思い、自分の力を試されるような緊張感のある環境はたしかに、大いに人の真価を発揮する場となりうるものと思いました。
なぜなら、自分は安心しかない環境にあると、伸び切ってしまうからです。小一時間放置したうどんのようになってしまいます。なので戦っている緊張感というのは自分を生かしてくれます。けれども応戦的になりすぎると、今度はすぐに喧嘩を売るぺーぺーのチンピラみたいになってしまうんです。困ったものです。
しかし逆に考えてみると、「敵陣に入れば自分は金(かね)として見られる」ということでもあるのだと思いました。わたしたちを金を基準にしてみる場所が敵地であり、金に関係なく見てくれるところが自陣であるのだと。お金に関する活動をするときの緊張感というものも、わたしは好きです。自分を育ててくれる最高の場だと感じます。
わたしはビジネス上の関係というものが好きで、お金を汚いものと見たり、お金を目当てに付き合うことを悪だと考えるのが大嫌いです。「互いの利を生もう!」という時の協力関係において感じられるものが、真の友情のように尊いと感じられることがよくあります。一緒に狩りをする相手は、ときに傷をなめ合うだけの友達よりも、深い真の絆を生むものと思います。
ところで、圭吾さんにとって、他者というのはアウェイであり敵地なのだということに少々の驚きを持ちました。わたし自身は他者との接触において、一発逆転を狙うことや、無駄死にをする可能性などを考えたことがなかったのです。今の平和な生活において、自分にとっての敵地とは一体どこなのだろうと思いました。
それでふと、自分との勝負は自分にとって、「敵地にいるような緊張感」であると思いました。自分の進みたい方に進むとき、自分との闘いが生まれることがあります。いつ何時も臆病風に吹かれるわけにゃあいきません。わたしはすぐに壇珠さんに怒られるので、今後も精進してまいります!!
自分、今日も生きたと思いながら死にたいっす。一日一回名場面に出会いたいっす。毎日爆笑したいっす。毎日「決まったー!!」とか思いながらガッツポーズしたいっす。毎日「あれ、これはもしかしたら傑作かもしれないぞ??」とか思いながら駄作を生み出し続けたいっす。
な、なんと、圭吾さんは、駄作を生み出し続けたいのですか…!!その心はいかに…!!わたしはド王道でド普通でド常識的ですが、できるだけ自分が駄作だと思わぬものを作りたいと思ってしまうほうです。自分で自分に「駄作でいいよ」と言ってしまうと、創作の意欲自体がグダグダになって、嫌になってしまうのです。つまらなくなって、飽きてしまうんです。
だからどんなことをしていても「駄作制作を悔やみ、傑作制作を夢見る」という、王道中の王道を行ってしまいます。そして、圭吾さんが武道館に上から「降臨する」のを目指すところとも対になっていて、わたしは下から登山していきたいと考える、ど真ん中王道を行くのがなによりも好きです。
実在する山で考えてみても、富士山やエベレストの頂上にヘリで連れて行ってあげようと言われたら、きっぱりとお断りします。「ここまで登ってきたぜ~!」という感慨深さがないのなら、自分にとってその「高さ」に対する意味がなくなります。ただ山の頂上に立つこと単体のみには興味がないので、要らぬ世話だと思ってしまいます。
わたしにとっては武道館というものに「そこまで登ってきた人の立つところ」というイメージがくっついていて、それがあってこそ武道館を特別な場所として視ているところがあります。東大もそう、富士山もそう、下から登ったのではなくて招待されて入学する人やヘリで頂上に立つ人がいるとしたら、それは果たして面白いのだろうか?!と思ってしまうんです。(すみませぬ)
いろんなところで、対になっている我らですね。興味深いことだと思います。王道の真逆を思う圭吾さんに、その心情や感覚についてインタビューしたいと思いました。
武道館を目指すとか言いはじめたときは「俺はまたどえらいことを言ってしまった」とガクガクブルブル震えたりもしたのですが、数日間経ってみると「長い人生、こういう千日間があってもいいよね(真顔)」って強く思うようになりました。なかなかナイスな挑戦を自分に課すことができてご満悦です。
今回の書簡のお返事を拝見して最も、「わ!!そうなの?!」とびっくりしたのがこの「なかなかナイスな挑戦を自分に課すことができてご満悦です」という部分でした!!わたしは、この感覚も持ったことがなかったのです。これまで、自分の挑戦の内容自体を、評価の対象にしたことがありませんでした。なぜだろう!
考えてみればわたしはこれまで、自分の挑戦自体を人に宣言したことがほとんどありませんでした。この毎日投稿は必要性があってそうなっただけで、あとのことは言わずに勝手な個人競技としての挑戦をしていたため、他の人に宣言するということを思いついたことがなかったのでした。
自分の挑戦自体の質について考えが及んだことがなく、まったく個人的なことだとしか思っていませんでした。なので、他者の目標についても、「この砂漠に木を植えるんだ!!」という素晴らしいものでも、「このドミノを並べて全長500メートルのドミノ倒しを完遂するんだ!!」というものでも、おぅいいじゃん!としか思っていなかったのです。この部分についても、是非にもどんな感覚なのかをお伺いできれば嬉しいです!!
やっぱりあたしは思うのです。何かを「やりたい」と思ったときに、それをやらずに放置をした自分と、実際にやりはじめてすったもんだしながら足掻き続ける自分と、どちらを愛しく思えるか。どちらの自分を好きになれるか。恋愛に例えるのはとてもわかりやすいですね・・・好きな人といるときに「あなたを好きです」と言えるか、否か。気持ちが伝わるかどうかはあとの話で、大事なことは実際にやることなのだと思います。大事なことは「自分にできることをやった」という爽快な手応えだと思います。勇気が必要な道を選べた自分を、私は戦友だと思います。愚かな道を選べた自分を、私は親友だと思います。やっぱりお前はさすがだなと、少なくとも自分だけは自分の友達でいてあげることができます。
圭吾さんは、「ご自分のことを好きになりたい」と思いますか?さまざまなところで「自分を好きになろう」というのを目にすると、いつもわたしは「どうしてそう思うのだろう」と思ってしまうのです。(すみませぬ!!)
今回改めてそのことに思いを巡らせてみて感じたのですが、わたしはそもそも自分のことを「嫌い」だと思っていないのだと思いました。じゃあそれだけ好きなのかと言われると、「好き」だとも思っていないのです。自分自身の存在を、好き・嫌いで見る対象だと思ったことがなくて、「自分を好きになろう」とする衝動が起こったことがなかった気がします。
それで、もしかしたらこれは「自分を良いと認める」という、どちらかといえば自己肯定感や自己受容や自尊心に関わることなのかと思いました。
そう考えると、「自分にできることをやった」という手応えってたしかに大切なものですよね。わたしは「自分にできないことを夢見て、自分にできることをする」のも素晴らしきことと思うのだけれど、「自分にもできそうだと思うことを目標にして、自分のできなかったことをしてみる」ことのほうが多いです。やり方はわからなくても、「成長しまくれば自分にもきっとやれる」と思えることに向かって、これまでの自分にはできなかったことをやってみるのが好きです。それで試行錯誤して頑張ってみて、それができたときに、非常に個人的に「うりゃあ~やったぜ!!」と思えます。愚かな自分が最高に嬉々とする瞬間です!!これを重ねていくことが、外からの評価を得ずとも自己評価を上げる大切な要素だと思います。
わたしは自分のことを、とにかく愚かだと思います。不動のごとく愚かです。好きなゲームさえ、首尾よくプレイできません。失敗ばかりしていて、他の上手な人達を眩しく思ってばかりいます。なぜそんなにも阿呆な失敗をする?!というような情けない失敗をしまくっていて、なんとひどい有様だろうと思うんです。繰り返しになりますが、嘘みたいにバカな失敗をしてしまうのです。自分ほどのバカを見たことがない気がします。
ゲームの世界も人の作ったものですから、やはり現実社会に通ずるところはたくさんあって、それが要領よくやれないということが、自分が現実社会でも要領よく生きられていないことを表しているのだなと、しみじみと思います。わたしは、現実社会での立ち回りが素晴らしい人をキラキラと眩しく感じます。俺たち人類の誇りだと思います。自分にできないので、こんな自分が人類の一員であることにありがたみばかり感じます。自分以外の個体たちがべらぼうに素晴らしいので、「おいおいおい、そんなにデキるのかよ!参ったなあ、こりゃもう身内自慢が止まらねえぜ」と思ってしまうんです。
毎日社会を回してくださる全人類に、すみませんです、ありがとう、と思います。ああ、ああ…!!自分、うんこちゃんですみません。うんこちゃんなりに社会を愛しています!!こんなに神聖な青い星の上に乗せてくれてありがとう。
われら人類は、宇宙の知的生命体の中でも最高に素晴らしい生命体の種だと思います。ものすごい経験だと思います。やりましたね俺たち。一回でも人間をやれたなんて、もうすげえっす。みんなすげえんだから!!涙
と、こう考えるともうね、好きとか嫌いとか、自己肯定・自己否定などのことが、ある意味でわからなくなっちゃうんです。その二極の観点が、自分から落ちるのを感じます。
なんで自分はこんなことをはじめてしまったのだろうと何度も何度も何度も後悔するし、見ているだけの人がめちゃめちゃ羨ましく感じて「俺もそっちに戻りたい」と思うし、いいことよりも悪いことの方が五億倍多く感じます。
あははは~!!(笑)わたしも同じようなことを思ったことがあります!!わかります、わかりますとも~!!マイクを持って壇上に立っている時に、「ああ見ている側の人が羨ましい!自分もそっち側になりたい!なぜこんなことをしてしまったのか!!」と激しく後悔したことが何度もありました。
出産の時もそうでした。助産師さんを見て漆黒の涙が出るほど呪いました。なぜ自分はあちら側ではないのだろう、なぜに自分はこんなことをしでかしてしまったのだろう!!おのれおのれおのれ、この世に神も仏もあったものか!!と。歩いている人が許せなくて、笑っている人話している人が許せなくて、「なんじゃお前ら、こちらはこの世に存在するのが信じ難いレベルの痛みの中にあるというのに普通に日常の生活など送りおって、冷徹な人でなしどもめ、地獄へ落ちるぞ!!」と心の底から思いました。あの時に自分は、自分の呪いのMP限界値まで使い果たしてしまった気がします。
このように自分は、いざ自分が極端に大変な目に遭っていると、その状態や環境の良い面がまったく見られなくなって、漆黒の呪いが発動します。なぜわたくしめにはこんな機能があるのでしょうか。身に覚えがありません。(笑)この機能を装備したのはわたしではなく、これも神のはからいということだと思います。自分に大変都合よく、そう考えております。愚かな上に図々しい自分です…!!
でもそう考えることで、誰かがものすごく大変な時に理性をなくして怒ったり呪ったりしていても、仕方ないじゃんと思います。仕方ない。だってぇしょうがないじゃない(和田アキ子参照)。その人だって、その機能を自ら装備したのではないだろうから。生まれる前に、天国でその機能をオプション装備したということはないと思うんです。だから互いに仕方がない。お互いさまだなと思います。
自分に都合良く考えることが、こうして他者への優しい視点になることもあるのですね!!
私はまだ結婚をしたことがないのですが、そういう話をした時に既婚者の女性から「10回くらい結婚したらいいのよ」と言われました。これを聞いた時の衝撃と自由は半端ないものがありました。どうしても「どうすればうまくいくか?」とか「どうすれば失敗しないでやれるか?」みたいなことを先んじて考えてしまう真面目さがあたしにはあるのですが、10回くらい結婚したらいいのよという言葉の破壊力は気持ちよかったです。ああ、そうか。と。一回や二回でうまくやろうと思うから「失敗は許されない」みたいに肩肘を張って踏み出す一歩を躊躇してしまうけれど、ダメならダメで何度でもトライをすればいいのだと思えば、踏み出す一歩が身軽になる。
おおお~!わたしもその女性と同意見であります、何回しても良いと思います!!そして、「結婚なんてないほうがいい」という先進的意見に反して、わたしは結婚というものをものすごく良いものだと思っています。なかなかに奥深い体験だと思います!!
結婚に完全なるリラックスを求める人もいると思います。そしてそれもとても素敵だと思うのですが、自分にとっては結婚に心地よい緊張感があるほうがいいと、とりあえず二回目でそう思いました。歩が金に成る緊張感だと思います。わたしにとって、まず結婚相手というのは、憎いのです。なんと憎いのです。ときには殺意も感じちゃったりして!!夫の身になにかあったら、そしてそばにレンガが転がっていたら、犯人はわたしだと思います!!いつもどこか小憎らしいったらありゃしないのです。でもそこから、友情や同胞感や神秘的ななにかが芽生えてきて、親や子や兄弟姉妹に勝るとも劣らぬ情けが生まれるものだと知りました。わたしは前夫のために喜んで死ぬと思います。こんな体験ができたのは結婚のおかげです。結婚という紙の上での契約に付帯するあれこれから起こることの、おかげだったと思います。
圭吾さんが結婚の道を歩むことがあってもなくても、「10回くらい結婚したらいい」という考え方に触れたことで得られたという自由は、圭吾さんにとってとても良きものなのだろうと勝手に予感致しました!!いいお話ですね。
突然ではありますが、壇珠さんは「物理的には離れているけれど、いつも一緒にいる」というような感覚を持つことはありますか??と言いますのも、私は誰かを色恋的な意味で好きになったとしても、どうしてなのか「どうしても一緒にいたい!!」という気持ちになることがあんまりないのです。そういう自分を冷血だと感じたり愛のない人間なのだろうかと思い悩む時期もあったのですが、現在は違って、物理的には離れていても「一緒にいる」と常に感じていることが判明したのです。美味しいものを食べたり、綺麗な景色を見ると、ああ、あの人と一緒に見たいなあとか、ああ、あの人にも食べさせてあげたいなあって温かい気持ちで思います。しかし、それなら今度一緒に旅行に行こうよって提案をするのかと思いきや、あんまりそういうことをしません。あんまりそういうことをしない代わりに、もしも自分の好きな人から「いま会いたい」と言われたら、世界の何処からでも「俺はそのために生まれてきました」とかなんとか言いながら、速攻で駆けつける準備だけは出来ています。受け身的であると言えばめちゃめちゃ受け身的ですが、頭の中に常にその人がいてくれるから、離れていても一緒にいるのです。思いは常に風に乗せていると言えばいいのでしょうか、こういう話をすると「いやいやいや、風になんか乗せていないで実際に言葉にしやがれこの野郎」とか言われちゃうのですが、こういう感覚って壇珠さんにもございますか!?
ご質問ありがとうございます!!考えてみたのですが、わたしの場合は誰かに「物理的には離れているけれどもいつも一緒にいる」という感覚があったとしても、それが物理的に一緒にいなくていいと感じる理由になっていません。恋していたら、とにもかくにも会いたいです。猛烈に会いたいです。物理的に一緒にいるというのは、心のつながりとはまったく別のことだと感じます。
わたしは未熟者ですので、「物理的に一緒にいなくていいや」と思う相手がもしいるとすれば、それはその人に特に恋心のないときです。愛はあっても恋はしていないと思います。恋しているときはある意味で盲目になっているものですから、「物理的に一緒にいたいの!!」という肉体・物理至上主義が理屈を破って出てきます。物理的に一緒にいなくてもいいのならば、死んでからでも魂同士で会えばいいのではないかと思ったりします。やっぱり生きている生身の人間としては、物理的に会いたい。相手が目の前にいて、触ることができて、匂いが感じられて、生の声が聴けて、直にやり取りができるのがいいです。恋する相手は、なにもかもがライブであって欲しいと思ってしまいます。それは、生きている間限定のライブだからです。物理的に会うのは、生きている間にしかできません。だから「生きて会いたい」という気持ちには身を切るほどの切なさも同時にあります。
距離があって会えないとか、死に別れて会えないということに、あまり頓着ないようになれたら切なさがなくて楽なのかもしれないと思います。でもわたしは、「会いたい派」な自分のままでいればいいと思っています。圭吾さんはじめ、日本のたくさんの人に会えないことが今も毎日切ないです。
あたしゃ思います。俺が笑えば世界も笑う。だから、俺が世界なのだと。世界は俺のものだという意味ではなく、俺が世界。俺そのものが世界。だから、俺が笑えば世界も笑う。俺が泣けば、世界はそれをもっとも引き立たせてくれる形で存在をする。だから笑う。俺は笑う。俺は俺の世界のために今日も笑う。明日も笑う。血を流しながらニッコリ笑う。なにもないなら「なにもねえや」とニッコリ笑う。なにもねえやと言いながら、本当はなにもかもあることを知っている。そんな顔で笑う。歩兵の矜恃を胸に抱き、敵陣の中で金になる。
ほんとうに、そうでございますね!わたしたちの世界は、まさに誠に、自分の状態そのものですよね。自分を通してしか世界を見られない我らですね。おお、同士よ、圭吾さんよ…!
我ら、なにもないときには、なにもないことで笑いましょう!傷ついたら、傷ついて泣いてしょぼ暮れて、あとからそれを笑いましょう…
自分が自分の世界だとすると、自分の状態がまずは世界情勢ですよね。朝起きて、自分を感じる。自分が生きているのが、まずは世界の最新ニュースです。自分の状態そのものが、世界の状態そのものです。
自分が悲しいときは、この世界の居心地はわたしたちにとって「悲しいもの」です。自分が嬉しければ、世界はわたしたちにとって「嬉しいところ」です。わたしたちにとって、世界は自分の状態を通さずに感じることがあり得ないのだと思うと、世界は自分そのものですよね!
わたしは、だから笑おうという考えが大好きです。なんというかね、泣きたい時は泣くといいし、切ない時は黄昏れるといいのだけれど、それでも結局のところは笑う、のを選びたいと思います。
だって俺たち、笑うのが好きだから。ご機嫌でいたいから。すると世界は、ご機嫌を返してくれるから!ああ俺たちときたら、なんと神秘的な世界にいるのでしょうね!!改めて改めて何度も何度もフレッシュに、このことを「えらいこっちゃ!!!」と思います!!
大好きです!!大好きですということでどれだけ周囲の誤解や軋轢を生むことになったとしても俺は愛を叫びたいと思います!!大好きです!!うおっっしゃーーーーーー!!今日も生きる!!壇珠さんに幸あれ!!そして、俺と俺をとりまくすべての人々に幸あれ!!幸せになるんだぞ〜〜!!(号泣)
今回の書簡では圭吾さんのテンションが爆高だったため、どうしたどうしたなにがあったんだと思ったわたしでした。そしてこちらは非常に普通のテンションながら、わたしのほうからも圭吾さんへ、いつもこうしてやり取りをしてくださることへの感謝と大好きをお伝えします!!
いつも圭吾さんをどこか、痛々しく思う自分です。こんなにも頻繁に満身創痍に至る人をわたしは他に知りません。いつも傷ついていて、傷ついたまま進み、また傷ついて笑い、そんな様子をいつも拝見しているうちに、母心がわきます。でもきっと傷つくことは自家発電のように圭吾さんのクリエイションであり、そこから感じることを味わい表現することが圭吾さんの生きる術そのものであると感じることがあります。
どうかいつもお元気で…!!早く渡航して会いに行けますように。わたしは物理的に離れていてもいつも圭吾さんとのつながりを感じますが、しかし圭吾坊やに「物理的に」会いたいです。この思いが天に通じますように。
ひとつお願いするとすればとにかく、生き延びて生き抜いてください。俺も死なずに生きるぜ、、、残りの時間がどんどん減っていくわれらに、また会う幸がありますように。読者さんもありがとう。みんな大好きです。次回のお返事もまた心待ちにしています!!絶対に、またね。いいな、わかったな!!!ww壇珠より。かしこ
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