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『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』新井見枝香

スーパーの鮮魚売場の前を通るとき、きまって新井さんのことを思い出す。
生のイカがまるごと置かれているからだ。つぶらな黒い瞳を光らせて横たわるイカは、さばいてちょうだいと言わんばかりに体を投げ出している。
新井見枝香さんの初エッセイ本「探してるものはそう遠くはないかもしれない」の中に「イカを捌くには、全裸に限る」と書かれている章がある。あまりにもインパクトの強いその描写を読んで以来、私の中で「イカといえば全裸の新井さん」だ。

全裸でイカをさばくというのは、いったいどういう気持ちなのだろうか。
知りたくなって、実はあの章を読んだあと私もひとりのときにやってみたのだ。
「裸で刃物を持つ」という初体験に、私は怯えた。
どうしてなのか、刃先を自分に向けてしまいそうだった。
そして、目の前のイカは食料ではなくなっていた。うまく言えないのだが、あちらが何かに「圧勝」していた。

新井さんは、ご自身がイカや魚の目をつぶすときの興奮について「根深そうな闇」と表現していらしたのだが、この件で私も自分の中に知られざる闇があることに気づいた。
客観的にこれはなかなか興味深い仄暗さだったので、いったん保留。じっくり探求していこうと思い、私は包丁を置いて服を着た。

いつものように下着をつけ部屋着に腕を通しながら、ああ、こうやってヒトは体を布でくるんで、肉体だけじゃなくいろいろな感情を保護しているのかもしれないなと思った。
洋服を着た私は、すました顔でイカに包丁をあてた。勝ち負けなど、そこにはもとよりなかった。

3作目エッセイ「この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ」では、1作目のときよりも新井さんはさらにたくさん脱いでいた。
ネタバレになるので詳細は書かないでおくけど、全裸よりも、小出しに(?)下着を脱ぐエピソードが最高に良かった。
新井さんは露出狂なのではなく、もちろんウケ狙いでもなく、それぞれにちゃんと理由があってそうしているのだ。

実際に衣服を着るか脱ぐかということだけではない。
この本の中で新井さんは、言葉巧みに惜しげもなく心や脳内の中身を見せてくれている。さながら本書にも出てくるストリップショーのように、ステージの上で一枚脱いでは客席に投げる。
そして体をくねらせて踊るのだ。テンポの良い可笑しみの中に、時折、忍ばせたように紛れ込んでいるひやりとした深み。単なる「おもしろエッセイ」じゃない。なんだろう、この本は。
読み進めるにつれ、これはもはや「エッセイ」ではなくて「アライ」という新しいジャンルなのではないのかと思うくらいだった。

それで思った。
新井見枝香という人は、無添加なのだ。

本書を読んでいて
「あー、わかる! それ、私もやってる、思ってる(けど、人には言ってない)」
というところがいくつかあった。
私は日常の中で、この「けど、人には言ってない」という添加物にいかに多くまみれているだろうか。
そのことは、全裸で包丁を持ったときの怯えにつながっているようにも思う。

最終章の「ベチョッ」にたどりついたとき、あれっ、なんだか急に雰囲気が変わったなと思った。姿勢良く椅子に座りなおして、真顔でこのページに向き合いたくなった。なぜこの章のタイトルが「ベチョッ」なのか、それが何の音なのか、そのことを考えながら3回繰り返し読んだ。
私なりの解釈だけど、これまでの人生で私も、「ベチョッ」の瞬間が何度もあったなと、思い出す。

「この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ」って、こういう想いがこめられていたんだなと伝わるしめくくりだった。
全体を通して、独特な表現に笑ったり、そうそう!と首を振ったり、妄想劇場を味わったり、すごく楽しい本だったけど、私はこの真顔で読んだラストの章がたまらなく好きだ。ショーが終わるタイミングで「あっ、最後の一枚をまだ着ていたんだ」とやっと気づかされた。新井さんが本当の本当に裸を見せてくれたのは、この章のような気がする。

そこから続いている「おわりに」は、ステージが終わって楽屋でゆっくり親しい人と話しているようなエンディング。師匠、桜木紫乃さんとのエピソードもあたたかい。
「書を捨てて小屋へ行く」作家と書店員。
このふたりが普段いかに書を愛しているかを日々見ているからこそ、その姿を思い浮かべながら胸がいっぱいになる。

思うようにうまくいく世界にはきっと、添加物のウソがある。
保存料も着色料もない次の「アライ」をまた読ませてもらえる日を、私は心待ちしています。