サンバ通り【短編】

残業終わりに一杯のつもりが、「もう一杯」「もう一杯」とついには最寄り駅までの終電を逃す程度に酔いがまわり、せっかくたっぷり働いたのにこんなことでタクシーなんざ使ってたまるかと、何とか家まで歩いて帰れるであろう他の沿線の駅までやってきて、そこから家までへの帰り道のことであった。

裏通りをコツコツと足音を立てて歩いていると、どこからか、俺の足音に合わせてリズムを叩く音が聞こえてきた。

立ち止まって振り返ると、音は止んだ。

気のせいか、と思って歩き出すとまた、足音に合わせてリズムを叩く音がした。

また、立ち止まると音はやんだ。

訝しげにあたりを見まわしていると、どこかのマンションの窓がピシャリ、と閉まる音が聞こえた。

明くる日の残業後、同じように酒を飲み、例の如く終電を逃してしまい、これはまあ、案外他の沿線からでも歩いて帰れることが分かったからという気の抜けようもあったのだが、とにかくその帰り道にまた同じ通りに出くわしたので、今度は自らの足音に合わせて、手拍子をしながら歩くことにしてみた。
すると、どこかのマンションのベランダから、俺の足音と手拍子に合わせて、チンチンチン、と鉄製の手すりを叩いているような、金属音のリズミカルな合いの手が繰り広げられた。

立ち止まると音は止み、その後ピシャリ、とだけ聞こえた。

俺はCDショップに行って音楽を聴き漁り、あの日奏でられたものがサンバのリズムであることを知った。
それから、俺はベースを始めたのであった。
アンプが内蔵されたタイプを買い、自分の足音に合わせてサンバのベースを弾けるように練習しまくった。
なぜこんなことをしたかと言えば、俺の足音をアテにリズムをとるような、どこぞわからんベランダの奴に一矢報おうと思ったのだ。
俺は大衆居酒屋の無料で出てくる塩キャベツのお通しでは無い。お通しだとしても小料理屋くらいの繊細な味付けで日々頑張っており、そもそも入店すらしていない路上飲みのお前のために作っていない。勝手にアテにするな。俺は酒飲みとしてそういう気持ちが昂っていたのだと思う。

 そうして、決戦の日は来た。

俺はこの日のために、ベースを片手に街を飲み歩き、休日にも関わらずわざわざ終電を逃し、同じ条件で同じ時刻、「例の通り」にやってきた。
俺は通りの入り口に立ち、ストラップを首にかけると、大きく息を吸った。
さあ、どこから見てるかわからんが、俺の練習の成果をしかと見るが良い。

 コツ。コツ。
 コツコツコツコツ。

俺がカウントを取るように歩き始めると、やはりどこかのマンションのベランダから、サンバのリズムが始まった。
 
 チンチンチチン。

来たな。
あたりを見渡すが、反響していて場所はわからない。なので、耳だけを研ぎ澄ませることにする。
いた。ここだ。俺は集中し、奴の奏でるリズムにベースラインをガツンと乗せた。

その瞬間、俺は奴がリズムを少しとちったのを聴き逃さなかった。
俺がマイベースを持ってきたことに動揺しているのだ。あいつは。
けれども、あいつはきっとこのテンションも糧にする。きっとこのベースすらもアテにする。酒飲みの直感で俺はそう感じていた。

思った通りだった。
あいつは唐突なベースラインを受け入れ、ともに音楽を奏でようとしている。なんて言うことだ。俺たちはついに対等になったのだ。
お互いがお互いをつまみとして、それはもう無限に、永遠と飲めるかのようだ。まるで旧友の仲のように、そこにいるだけで、会話だけで成り立つように。
そして、自分の足元を見て気づく。
俺はなんとサンバのステップを踏んで演奏していた。普段歩きながら演奏の練習していたことで、いつの間にか体にサンバを身につけていたのだ。そんなことがあるか? いや、全くもってある。現にここに、足元にあるでは無いか。

俺はなんだか楽しくて、通りを行ったり来たり、回転したりして、奴との音楽に身を任せた。
ああこれだ、これだ。サンバって、気持ちいい――。

『うっせーぞ!』
 どこかのおっさんの怒号を皮切りに、俺たちはその日あっさりと解散した。

そうして時は年末まで進む。俺は「例の通り」沿いのマンションを借りて引っ越してきた。俺はあいつともっともっとセッションで会話したかったのだ。
早めに仕事を切り上げ、新居へ帰った後、ウォーミングアップをしながら夜更けを待つ。
さて、そろそろ頃合いか。ベランダに出て、通りを見下ろした。
まさか俺がこっち側に来るとは思わなかったな。上から見るこの通りの眺めはわりと味わいがあっていいじゃあないか。
それから、指揮者となりえる足音を待ったが、セッションは始まらなかった。
あいつはと言えば、もちろんしっかりとスタンバイしているようだった。人が通るたび、チンチ……と始めようとしているが、どうやら気が乗らないらしい。俺も同じ気持ちだった。演奏するには何かが足りない。
もしや、足音のビート感が足りないのではないか。ペタ、ペタ。シト、シト……ではダメだ。先ほどから通る人はふにゃふにゃした音を立てるやつが多く、コツコツとはっきりとした音を奏でるやつはそうそういない。
そうして考えるうち、俺は演奏が始まらない原因について気付いてしまった。
そうか、足りないのは「俺の足音」なのではないか。俺は確かに酔っ払うとオーバーに音を立てて歩くきらいがある。そのビートをあいつは気に入っていてくれていたとも言える。なるほど、それでは俺がこっち側に来ては、一向にセッションが始まらないではないか。

 そんな時だった。
 遠くからカン、カン、というような足音が近づいてくる。
 
強い拍。これは、ハイヒールの音だ。
あいつはそれを聴きとるや否や、一足先にリズムを奏で始めた。
オーケー。「これでいく」んだな。
俺はベースを手に取ると、「あいつのリズム」と「カンカンというビート」を心でしっかりと受け止め、ベースを乗せていく。
ああ、これこれ。音が複雑に絡み合って、対話していくこの感じ。
『あれ。お前、越してきたんだな』ズンチャカチチンチズチャカチャチンチン。
 リズムから、あいつのそんな言葉が伝わってくる。
『そう、昨日から』べーツべべーツドベーツードべべべべ。
顔が見えなくても、どこにいるか分からなくても、会話は成立している。
音だけの対話がどこか心地よかった。

『こわ』カカン。
そんな中、ハイヒールのビートが悲鳴を上げるようにして急に速くなった。

俺たちは驚きつつも、そのテンポに食らいついていく。
下を見てみると、女性は「自分の足音に追随する謎の伴奏」に怖くなって、走り出していたのだった。

それでも俺たちは彼女を含めた対話を試みる。
『大丈夫だ、これは音楽なんだ。怖くない』ズンチャカチチンズンズンチャチャカチャチンチン。
『君が受け入れるだけで、そのステップはかけがえのないものになるんだ』ドゥべーツべべーツドゥベーツードべべべ。
俺は指がもげそうになりながら演奏し、そう伝えたが、女性は走り去ってしまった。
仕方ない、今日はもうお開きだな。俺は窓をピシャリと閉めた。

翌週の夜更け。カン、カン、と聞き覚えのある足音に、俺はベランダの窓を開けた。
街灯が逆光になってよく見えないが、通りの前に、先週のハイヒールの女が仁王立ちで佇んでいるようだった。

女は一呼吸置くと、勇み足で、鮮明な音を立たせ、ゆっくりと通りを歩き出す。
俺とあいつがいつものようにサンバのビートを始めると、

『甘く見ないで』と女のその口元から、ホイッスルの音が鳴った。


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