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【桜 三部作#2】桜流し

娘の咲季が生まれた日、湿った雪が、咲きそろった桜の花びらを一枚一枚剥ぎ取っては、アスファルトの地面の上に貼り付けていた。季節外れに寒い日だった。

そして咲季が亡くなったのも雪まじりの雨の降る春の日だった。私は修二と警察署に行った。記憶はそこまでだ。その先は靄がかかって、今だに思い出すことができない。無理に思い出そうとすると、頭が締め付けられて気が遠くなる。そして地面が船底にいるように斜めになって、立っていられないような目眩に襲われるのだ。だから、ただ「娘がたった3年生きて死んでいった」という事実だけが黒い大きなカプセルに収められて私の胸を塞いでいる。

あれから3年が経過したが、今も、そのカプセルは、ずっと私の胸の真ん中で、動くことも溶けることもなくつかえたまま、存在し続けている。毎朝目覚めると、日常は私を置いてすでに流れ始めており、私もその流れに恐る恐る足を入れてみる。夫はもう、出勤したようだ。コーヒーが冷めて残っている。そのコーヒーを胃に流し込みながら、私は部屋を見回す。ここも、私の胸の中と同様に、何かがつかえて塞がっている。気の流れが悪くて、よどんでいると感じた。

私は模様替えをすることを思いついた。きっと少し家具を移動して配置を変えれば、気が流れ出すわ。それから、食べることも忘れて、夕方、修二が帰宅する直前まで、模様替えに没頭した。「どうしたの?これ全部、葉子一人でやったの?」「どうかしら?」「うん、いいんじゃない」夫はご飯ができていないことを怒るような人ではない。それはありがたいが、もうちょっと関心を示してほしかった。彼の反応は上っ面だけをなぞる乾いたものだった。つまりは私にあまり関心がないのだ。

それからも私は頻繁に模様替えをした。模様替えには段取りが必要だ。まずはレイアウトを思い描く。軍手、工具、床に敷くシートを用意する。家具の寸法を測り、プランが可能かどうか確かめる。本棚や食器棚なら中身を出しておく。家具を移動するときの同線を邪魔しない場所に。新しいレイアウトがイメージしたものと違ったときは、残念だが元に戻すこともある。模様替えをしている間は、身体の中に力がみなぎってくる。修二は「どうやって一人で動かしたの?」と不思議そうに言うけれど、どこからともなくエネルギーが湧いてくるのだ。

しかし何度模様替えをしても、なかなか気の流れは変わらない。少し良くなることもあるが、相変わらずどこかでよどんで、塞がっている。私は夕べ、真夜中に新しいレイアウトを思いついた。リビングの中央にピアノを置くプランだ。修二はぐっすり寝ている。私はそっとベッドを出て、リビングに行った。いつもの段取りで仕事を始める。気分がやけに高揚している。静まり返る夜の底で、眩しいほどのライトに照らし出されたピアノ。沈殿していた重い気が動き出す。上に上がり、天井を伝って消えていく。しかし重い気は次から次へと生まれては、天井を目指して登っていくことを繰り返す。家具を移動させるときも、気の循環が邪魔をする。部屋が重い気で充満して、とうとう私はその重さに抗えなくなった。目を閉じた。私の身体が、枝から無理やり剥がされた桜の花びらで覆われていくのを感じた。花びらは思ったより、湿って重量があり、ペタペタと私の全身に張り付いていった。


**【桜 三部作#3】残桜、に続く




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