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第一章 大浮上

 茹だるような暑さの中、僕はソルスィエ号で、テティスの脱出艇を曳航していた。フロートで海上を走りながら、脱出艇を引っ張っているのだ。彼女は今、ソルスィエ号の後席にいる。
 「これが空中都市?ただの島じゃないか」
 ブランが見えてくると、テティスが失望したように言った。
 「遺跡なんだ。もう空は飛べない」
 僕がそう答えると、テティスは海に浮ぶ巨大な島を眺めた。
 「あの島の重力機関は死んでいるのか?」
 「ああ、死んでいる。誰も直せない」
 そう答えると、なおもテティスは質問した。
 「この機体の重力機関で代用できないのか?」
 「無理だよ。それにマリアン人はもう重力機関が分からないんだ」
 「重力機関が分からない?」
 テティスは驚いたようだった。
 「僕達はもう重力機関が作れないんだ」
 今のマリアン人にとって、重力機関は完全に遺失技術で、使い方もよく分からない。伝説によれば、八大空中都市の起源は、八隻の宇宙船だと言われている。ラ・マリーヌが最も栄えた大洪水前の地上時代、宇宙船の重力機関を転用して、空中都市を建造したらしい。
 「この星は全部海なのだろう?大変じゃないのか?」
 「ああ、死活問題だよ。でも新しい重力機関は作れないんだ」
 ラ・マリーヌの文明は衰退している。いや、死に瀕している。
 「この星の状況が段々分かってきた」
 テティスは後席で歎息したようだった。
 「もうすぐ着くけど、僕の言う通りにすれば、大丈夫だから」
 港が見えてきた。外壁に穴が空いていて、半分水没した洞窟のようになっている。
 「分かっている」
 とりあえずテティスには、黙っていてもらうしかない。今は女物の服がないので、僕の上着を彼女に貸すしかない。髪と眸の色は僕と同じだからよいとしても、彼女の白い肌はかなり目立つ。ラ・マリーヌは常夏の星なので、皆日焼けしているのだ。
 「さぁ、着いた。これが僕の故郷だ」
 ソルスィエ号を無人の埠頭に停泊させると、僕達は操縦席を降りた。
 「大丈夫なのか?ここは」
 ここは僕の穴場だ。水上機一機分しかないが、絶好の秘密基地だ。
 「誰かに見られていなければ、大丈夫さ」
 テティスは不安そうだったが、僕は努めて明るく振舞った。それよりも問題は、連絡なしにブランに来てしまった事だ。時間通りブリュに帰らなければ、塩組合で騒ぎになる。僕はいつも無線で伝達信号を使っていたが、この時は用心して、無線で連絡をしなかった。
 「悪いけど、ここで少し待っていてくれないか?」
 テティスにそう言うと、僕は同業者に会いに行く事にした。ブランは遺失都市だが、水上機の寄港地として利用されている。誰かブリュに行く者に伝言を頼めばよい。
 外壁の水上機乗りの溜まり場に行くと、紅い帝国の空中戦艦が、近くにまで来ているという噂が流れていた。緑の共和国と碧の王国は、水上機部隊を派遣して、共同で警戒に当たっているらしい。僕は直感的に、テティスを探しているのではないかと思った。
 無線を使わなかったのは、正解だったかもしれない。僕はブリュに帰る先輩を一人見つけると、筆談で伝言を頼んだ。後で怒られるかもしれないが、今は仕方ない。
 僕は港に戻りながら考えた。テティスを人目に触れさせない方がいい。空中戦艦が帰るまで、彼女の身を匿う必要がある。もし見つかって騒ぎになれば、彼女がどういう扱いを受けるのか分からない。最終的には緑の共和国を当てにするしかないが、今は隠した方がいい。
 埠頭に戻ると、僕はテティスと一緒に居住区に入る事にした。ブランの内部に入ってしまえば、外部の人間にはまず分からない。そしてここには僕の住処もある。
 「テティス。僕の家に行こう。そこなら誰にも見つからない」
 そう提案すると、テティスは僕を見た。
 「大丈夫だ。少しここでゆっくりすれば、どうすればいいのか分かるさ」
 何か大きな秘密を知ったような気がして、気分が高揚した。皆が知らない所で、自分が世界の中心になっているような気がしたのだ。だがテティスは冷静だった。
 「ジュリヤン、何か分かった事があるのではないか?」
 一瞬、僕の心が読まれたのかと思った。だがはっきりとした訊き方ではなかった。
 「紅い帝国の空中戦艦が近くに来ている。理由までは分からないけど」
 テティスは念話ができるのだ。隠し事はできないと判断した。
 「そうか。分かった」
 空中戦艦というものを、テティスがどう理解したのか、分からなかったが、とにかくそれで、彼女は黙って僕について来る事にしたようだった。僕達は、ソルスィエ号と脱出艇を大きな帆で隠すと、ブランの居住区へと向かった。

 崩れかけた白い城壁に、枯れた蔦が這い回り、所々で緑を作っていた。地上時代の栄華を忍ばせる廃虚の街を、僕達二人は歩いた。かしこに小鳥の囀りが聞こえ、生い茂る木立が風に揺れている。僕の後ろを歩くテティスは、強く心を動かされているようだった。今まで彼女は、こんな遺跡は見た事がないのかもしれない。マリアン人には見慣れた光景だが、彼女にとってここは別世界なのだろう。
 回遊都市ブラン。かつては八大空中都市の一つとして栄えたが、その昔、重力制御機能を失って海に墜ちた。以来、季節風に従って、大洋を回遊する巨大な遺跡になっている。現在は海の民と呼ばれる、少数の人間だけが住んでいる。
 海の民は、この星で唯一、木造の帆船を操って、大洋を航海できる例外的なマリアン人だ。他のマリアン人は全て、空中都市に住んでいるのだが、海の民だけは、回遊都市ブランを根城にして、活動している。僕は海の民ではないが、ブランの家とブリュの塩組合を行き来する毎日を送っている。家には小父さんが住んでいるが、両親はいない。幼い頃、他界した。
 廃虚の街を抜けて、東側の外壁に辿り着くと、外壁と一体化した灯台が見えた。
 「ここが僕の家だ。今から小父さんの所に行く」
 テティスが頷くと、僕達二人は狭い螺旋状の階段を登って、風が吹き抜ける見晴らしのよい場所に出た。四面壁がなく、四本の柱と屋根だけがある展望台だ。広さは十分あり、備え付けの椅子と机がある。ラム小父さんは今日も見張り台で、海を眺めながら泥酔していた。
 ラム小父さんは、アルコール依存症だ。かつて撃墜王だったらしいが、今は単なる呑んだくれだ。酒を呑んでいる時は、景気よく昔話をするが、酒が切れると途端に陰気になって、逃げられた奥さんについて語り出す。困った小父さんだが、水上機に関する事なら、本当に何でも知っている。僕が十五歳で、塩組合の水上機パイロットになれたのは、小父さんのお陰だ。僕がパイロットになれた日、小父さんはまるで自分の事にように大喜びしてくれた。
 現在、ラム小父さんは僕の後見人だ。軍を退役した後、ブリュの塩組合に入った。そして操縦士を引退すると、塩組合も辞めて、ブランに住み着くようになった。僕は六歳で小父さんから、ソルスィエ号をもらい、以来九年間乗り回している。
 「ジュリヤンか」
 僕が近づくと、ラム小父さんは振り返った。
 「ん?そちらのお嬢さんは?」
 僕は手話で、お客さんだ、と伝えた。
 「そうか。お前が女の子を連れて来るなんて珍しいな」
 ラム小父さんがそう言って笑うと、テティスは僕を見た。僕が促がすと、彼女は軽く会釈した。そして手話で、彼女も喋れない、と伝えた。小父さんは、黙って僕の手話を見ていたが、その事について、何も言わなかった。酔って頭が回らなくなっているのかもしれない。
 「歓迎するぞ。わしはラムだ。よろしくな」
 手話でテティスを紹介すると、彼女が好奇の眼差しで、ラム小父さんを見ている事に気がついた。小父さんは座ったまま、乾杯するかのようにグラスを持ち上げると、彼女はグラスの中で、琥珀色に輝く液体をじっと見つめた。心なしか、彼女の眸に赤味が射したように見えた。
 「呑むか?」
 ラム小父さんが、酒瓶を手繰り寄せると、テティスは無言で空いたグラスを手に取った。僕が呆気に取られている間に、二人は乾杯をして、酒を酌み交わした。アレは蒸留酒だ。水で割らないと、とてもきつい。だが彼女は苦も無く飲み干した。そしてもう一杯要求した。
 「そうか!そうか!お前さんはこの酒が気に入ったのか!」
 ラム小父さんが大喜びして、テティスに杯を注ぐと、二人はそのまま飲み始めた。僕は呆れて二人を眺めた。じきにラム小父さんが、眠り込んでしまうと、テティスが僕を見た。
 「味は悪くない。だがなぜこんなになるまで呑む?」
 そんな事は小父さんに訊いてくれ。
 「話を聞いていたが、この星の言葉が分かる。習えば話せると思う」
 残念ながら、僕は彼女に会話を教える事はできない。
 「この星の人間は、念話が使えないのか?」
 「ああ、使えない」
 そう答えながら、なぜ僕は、テティスの心の声が聞えるのだろうと思った。
 「ジュリヤンは手話を使うのだな」
 「僕は生まれつき喋れないからね」
 テティスはグラスを置くと、見張り台から一望できる、夕暮れ時の海を見た。何となく、彼女は気まずそうにしていた。だが僕は、努めて明るく彼女に言った。
 「これから食事を用意するけどどうする?」
 「食べる」
 僕はそこでふと立ち止まった。
 「君は普段、一体どんなものを食べているんだい?」
 テティスは、僕の真意を探るような、微妙な眼差しを向けた。
 「霞を食べて暮らしていると言ったら、どうする?」
 「それは驚くね。大いにラ・マリーヌの空気を味わってくれ」
 「光合成でカロリーを得ていると言ったら、どうする?」
 「安上がりだね。大いにラ・フラムの日光を味わってくれ」
 僕達は沈黙した。不毛な会話だった。
 「あまり期待しないでくれ。大したものは作れないんだ」
 「食べられれば何でもいい」
 テティスは素っ気なく答えた。

 それから僕とテティスは、ラム小父さんの家と脱出艇を往復する日々を過ごした。彼女は一日の大半を、脱出艇の中で過ごし、ずっと何かを読んでいた。紅い帝国の空中戦艦は、数日で立ち去ったが、しばらくの間、僕達は隠れているつもりだった。
 「何を読んでいるの?」
 今日も僕は座席越しに立って、後ろからテティスに尋ねた。
 「古い資料」
 薄暗い操縦席に座るテティスの顔を、蒼い光が照らし出していた。彼女の周囲には無数の青い窓が宙にあり、赤い文字が流れている。僕には全く読めない文字と記号の羅列だった。
 「一体何の?」
 「主に宇宙移民史。宇宙航行技術史も見ている」
 この小さな船に、歴史の資料がある事が不思議だった。だがテティスの話では、一人の人間が、一生かかっても読みきれないほどの膨大な情報が、この船にはあるのだと言う。
 「何を探しているんだい?」
 「この星と関係がありそうなロマンス系移民団を探している」
 面白そうな話だった。僕はテティスに尋ねた。
 「それで、何か分かった事はあるの?」
 「行方不明になったロマンス系移民船団が一つある」
 テティスは青い窓を一つ、拡大して見せた。星図に、航路らしき線が延びる。
 「それがマリアン人の祖先なのかい?」
 僕は驚いた。もしそれが本当なら、ぜひ知りたい。
 「証明できない。だがその可能性は高い」
 宇宙移民船団の軌跡を星図の上で辿った。だが途中で線は途切れている。
 「彼らは最初期の重力機関で旅立った」
 テティスは立体図を大きく表示した。ピラミッドの形をしている。重力機関だろうか?
 「私が今一番欲しいものは、彼らが使っていた重力機関の資料だ」
 大きな青い窓に、赤い文字列が大量に現われて、下に流れていく。表示された候補は大量にあり、どれが目的の資料なのかすぐには分からない。一つ一つ中身を読んで、それらしいものを探すしかない。テティスはここ数日、その作業に没頭していた。
 「私は重力機関の技術者だ。資料が手に入れば、動かせるかもしれない」
 嫌な予感がした。テティスは一体何をするつもりなのだろう?
 「動かす事ならマリアン人でもできる」
 「重力機関は元々、宇宙船の動力機関だ。この星の人間は、本来の使い方を忘れている」
 確かに重力機関は、過去の文明の遺産だ。空中都市も、飛行船も、水上機も、重力機関がなければ始まらない。だからマリアン人は、重力機関そのものに手をつける事を嫌う。この星の大地が全て水没してしまった以上、化石燃料を用いた内燃機関は使えないのだ。
 「具体的にどうするつもりなんだい?」
 「宇宙船の代用にする」
 僕は驚いた。本当にそんな事が可能なのか?
 「無論、船体も必要だが、一番肝心なのは重力機関だ」
 「どれくらいの重力機関が必要なんだい?」
 重力期間は大まかに言って、空中都市級、飛行船級、水上機級の三等級がある。
 「宇宙船の代用になれば何でもいい」
 その話は無理だと思った。重力機関は貴重品なのだ。そう簡単に手に入らない。それにその話だと、恐らく飛行船級か、空中都市級の重力機関が必要になる。
 「でも空いている重力機関がないよ」
 「空いている重力機関ならある」
 僕が困惑すると、テティスは当たり前の事のように言った。
 「この島だ。ブランは空中都市だったのだろう?」
 今度こそ本当に驚かされた。
 「無茶だ。何を言っているんだよ。不可能だ」
 ブランの重力機関は、空中都市の下半球最深部にある。現在、水没しているので、下半球がどうなっているのか分からない。そもそも行けるのかどうかさえも分からない。
 「ジュリヤン。不可能と決めつける前に、よく考えてみるんだ」
 テティスは振り返らずに、青い窓に流れる赤い文字を追っていた。
 「なぜこの島は海に浮んでいる?」
 動きが止まった。今までそんな事は、疑問に思わなかった。だが言われてみれば、確かにそうだ。島全体を浮かせるほどの巨大な空洞が、下半球にあるとは思えない。
 「重力機関は完全に死んでいない。恐らく今も機能している」
 テティスは自分に、言い聞かせるようにそう言った。
 「でも直せるの?それに下半球に行けるかどうか分からないよ」
 「直せるかどうかは、現場で私が判断する」
 そこでテティスは振り返った。
 「ジュリヤン。頼みがある。私をブランの重力機関まで案内してくれないか?」
 テティスは見つめていた。僕と同じ髪と眸の色で、こちらを見つめていた。僕は迷った。この一歩を踏み出せば、二度と引き返せないかもしれない。だが僕は言った。
 「分かった。案内するよ」
 そう答えると、テティスはなぜか俯いた。
 「ありがとう。協力に感謝する」

 それから数日間、僕は仕事の休みを取って、ブランの下半球について調べた。そして問題が色々ある事が分かった。立ち入り禁止の上、地図もないのだ。海の民は、部外者の侵入を拒んでいるようだ。結局、困り果てた挙句、ラム小父さんに相談した。
 「ブランの重力機関?」
 ラム小父さんは、虚ろな眼差しをこちらに向けた。僕は手話で内容を伝えた。
 「何?あのコが行きたがっているって?」
 僕は必死になって頷いた。
 「分かった。わしが案内してやろう」
 ラム小父さんが上機嫌にそう答えると、僕は驚いた。と同時に嫌な予感がした。
 「昔、重力機関の間まで行った事がある。なぁに、大丈夫さ」
 相談する人を間違えたかもしれない。ラム小父さんは、酔って時々記憶が錯乱する事がある。だがその事をテティスに話すと、彼女はあっさり了承した。
 「辿り着ければ問題ない」
 「でも小父さんはアルコール依存症だよ?」
 「アルコール依存症とは何か?」
 テティスは真顔で尋ねた。
 「お酒なしにはいられない人の事だよ」
 「ならば話は簡単だ。お酒の力を借りればいい」
 危うく今度は、テティスの判断力を疑いそうになった。
 「だがその海の民とやらに、案内を頼むのは難しいのだろう?」
 確かにそれはその通りだが、ラム小父さんはアル中なのだ。
 「私の見る限り、あの人はまだ大丈夫だ」
 テティスは意外な事を言った。だが僕は、最近の小父さんをよく知っている。
 「酔って右も左も分からなくなる案内人なんて、いない方がましだ」
 「では酔っていないとどうなのだ?」
 逃げられた奥さんの話を延々と続けるだろう。出会った頃から、別れ話が出るまでの大恋愛叙事詩だ。僕はもう最初から最後まで、諳んじる事だってできる。
 「その話は大変興味がある。ぜひ聞きたい」
 小父さんを知らないから、そんな事が言えるのだ。
 「あの小父さんが、一年を通して素面でいられる瞬間は、滅多にあるもんじゃない」
 「貴重な時間だな。有効に使わせてもらおう」
 こうして僕達は、ラム小父さんに、ブランの重力機関まで案内してもらう事になった。

 結局、テティスの私服を用意しただけで、僕達三人は、ブランの下半球最深部に行く事にした。食料も携行したが、明らかにラム小父さんのお酒の方が重かった。今僕達の前を、道案内を買って出た酔漢が、怪しげな足取りで、地下へと続く階段を降りている。
 「何度も言ったけれど、全くの無駄足になる可能性もあるよ」
 「分かっている。だが試す価値はある」
 僕はテティスを見た。今日の彼女は、空色のつなぎを着ていた。薄く化粧しているのか、肌も褐色で、この星の女性に見える。ここ数日、彼女は遠くから海の民の女性を観察していた。恐らくどんな格好をしているのか、調べていたのだろう。
 「結局、重力機関の資料は見つかったの?」
 「いや、見つからなかった」
 テティスは、真っ直ぐ前を向いて歩いていた。
 「だがそれに近い資料は読んだ。何とかなると思う」
 僕達の念話は、ラム小父さんに聞えていないようだった。理由は分からないが、どうやら僕とテティスの間だけにしか、通じないようだ。
 「見張りだ」
 ラム小父さんがそう呟いて、立ち止まった。見ると、地下へと続く階段の奥から、光が漏れている。この先に誰かいるようだ。恐らく海の民と考えて間違いない。
 迂回しよう。僕はそうラム小父さんに手話で伝えた。
 「いや、下に降りるには、大広間を通るしかない」
 居住区と下半球の間には、大広間と呼ばれる空洞がある。居住区から降りる地下への階段は、全て大広間に通じている。そして大広間から下半球へ降りる道は、小父さんの話では、一つしかないらしい。海の民はその唯一の道に、見張りを立てていたようだ。
 「大丈夫だ。任せておけ」
 ラム小父さんはそう言うと、覚束ない足取りで、階段を降りて行った。僕達は、互いに顔を見合わせる。どうやら小父さんは、海の民と会うつもりのようだ。僕達三人が大広間に到着すると、すぐに小銃で武装した二人の男が近づいてきた。
 「お仕事ご苦労さん!」
 ラム小父さんは、酔漢よろしく大声で挨拶した。そして通り過ぎようとする。
 「待て。どこに行く。ここから先は立ち入り禁止だ」
 年配の男が、僕達三人を制止した。
 「酒盛りじゃよ。大広間の壁画を見ながらな」
 ラム小父さんが明かりを照らすと、大広間の天井に描かれた、昔の絵が浮かび上がった。
 「大広間で酒盛り?」
 若い男が驚いたような声を上げると、ラム小父さんは半目で尋ねた。
 「いけないか?」
 二人の男は、互いに顔を見合わせた。
 「いや、ここは」
 年配の男が、僕とテティスを見た。特に背嚢を背負っている僕は、探検者の姿にしか見えない。彼は疑惑の眼差しを僕達三人に向けた。
 「昔の絵は見ていて飽きない。酒のつまみにはもってこいじゃよ」
 ラム小父さんは構わずそう言うと、その場に座り込んだ。そして背嚢から敷物を取り出して、広げ始めた。するとテティスもそれを手伝い始めた。僕は呆気に取られたが、とにかく背嚢を下ろす事にした。小父さんは、僕の背嚢からお酒 の瓶を次々取り出した。
 「お前さん達も呑むか?」
 ラム小父さんがそう勧めると、年配の男は首を振った。
 「仕事中だ。呑めない」
 だが年配の男は、ちょっと迷っているように見えた。
 「堅い事を言うな。ささ、座れ、座れ」
 ラム小父さんは両肩を掴んで無理矢理、年配の男を座らせた。隣でテティスがにっこり微笑みかけると、若い男もたちまち座った。僕は何となく面白くなかったが、とにかく酒の杯とつまみを配った。すでに小父さんは、年配の男に杯を持たせて、酒を注いでいる。
 「今は仕事中なんだ。こういう事は困る」
 そう言いながら、年配の男はまんざらでもない様子だった。
 「お嬢さんはどこの人?」
 若い男がテティスにそう尋ねると、彼女は微笑みながら、彼に酒を注いだ。
 「お嬢さんの名前は?」
 若い男が一杯呑むと、テティスは微笑みながら、また酒を注いだ。
 「ああ、悪い。娘と息子は生まれつき喋れないんだ」
 ラム小父さんがそう言った。いつのまにかテティスは、小父さんの娘という事になっていた。もしかして僕は、彼女の弟という設定だろうか?
 「それは失礼した。おい、やめないか」
 年配の男が、若い男をたしなめた。だが若い男は、テティスの側から離れようとしなかった。僕は気になったが、彼女は微笑みながら、どんどん若い男にお酒を注いでいた。
 「元気があっていいな。若者はこうでなくちゃいかん」
 ラム小父さんがそう言うと、年配の男は答えた。
 「いえ、私を困らせてばかりいます。おい、あまり呑み過ぎるなよ」
 だがテティスの手は止まらず、若い男は呑み続けた。そのうち年配の男も呑み始め、ラム小父さんと歓談し始めた。僕はただ、成り行きを見守るしかなかった。
 「この辺りの壁画は、天空都市オルを描いたものが多い」
 ラム小父さんは、この星の歴史を描いた壁画を見ながら、年配の男にそう語りかけていた。
 「空高くに舞い上がって、行方不明になった空中都市の事ですね」
 年配の男がそう答えると、テティスが耳を傾けているのが分かった。
 「ああ、そうじゃ。今でもこの星の空高くを、彷徨っていると聞く」
 天空都市オルは遺失都市の一つだ。大洪水の直後に失われたらしい。詳しい理由はよく分からないが、重力機関の暴走という事になっている。昔の戦争で失われた空中遺跡アルジャン同様、この星の空を無人で彷徨っているらしい。
 「知っておるか?ブランが墜ちた原因を?」
 ラム小父さんがそう言うと、皆が注目した。
 「ブランが墜ちたのは、操作盤の故障じゃ、重力機関そのものの故障じゃない」
 僕の隣で、テティスは一言も聞き漏らすまいと注意していた。
 「わしの爺さんが言っておったよ。ブランは死んでいない。眠っているだけじゃとな」
 「じゃあ、ブランが生き返る可能性があるのか?」
 若い男がそう尋ねると、ラム小父さんは答えた。
 「ああ、大浮上じゃ。百年に一度の大浮上じゃ」
 ラム小父さんは両腕を広げて、若い男を脅かした。
 「大浮上って爺さん。そんな話、聞いた事がないぜ」
 僕も聞いた事がない。だが年配の男は、杯を置いて静かに言った。
 「長老から似たような話を聞いた事がある。ブランは今でも浮いているらしい」
 テティスがちらりとこちらを見た。僕は黙って頷いた。
 「だが大浮上は知らない。もしそんな事があったら、我ら海の民は大変な事になる」
 年配の男がそう答えると、ラム小父さんは言った。
 「疑うか?だが天空高くに舞い上がったオルは、一度海に墜ちてから上がったと聞くぞ」
 それは初耳だった。重力機関の暴走と聞いているが、経緯までは知らなかった。
 「だけど爺さん。今までそんな兆候はなかったぜ。だいだい百年に一度って何だよ?」
 ラム小父さんは杯を傾けながら、無知な者を見るような眼差しで、若い男を見た。
 「わしらは避難しているんじゃ。大浮上に備えてな」
 ラム小父さんは、一体どこまで僕達の事を知っているのだろう?
 「その情報はどこから手に入れたんですか?」
 年配の男はもう呑んでいなかった。真剣な眼差しでラム小父さんを見ている。
 「わしの勘じゃよ。まもなく大浮上が始まるとな」
 ラム小父さんは微笑みながら、僕とテティスを見ると、目配せをした。
 「ちょっと失礼。仲間と相談してきます。私が戻るまでここから動かないで下さい。おい、お前はここに残って、このお三方のお相手をしていろ」
 年配の男はそう言ったが、若い男はすでに出来上がっていた。
 「了解!」
 若い男は立ち上がって、軍隊式に敬礼してみせたが、すぐによろけて座った。
 「海の民も避難した方がいいぞ。大浮上に巻き込まれて死ぬのは馬鹿らしいだろう?」
 ラム小父さんがそう言うと、隣でテティスは、はっとして俯いた。確かにその危険性まで、僕も頭が回らなかった。確かにそれは小父さんの言う通りだ。
 「すぐに戻ってくる。ここから動かないで下さい」
 年配の男は、一度僕達三人を見ると、その場を駆け足で立ち去った。
 「さて、うるさいのがいなくなった」
 ラム叔父さんが、若い男を見ると、すでに彼はテティスの肩に寄りかかって寝ていた。僕は彼を起さないように、静かに床に寝かせると、僕達二人は、小父さんを見た。
 「よく聞け。わしはこの通りただの酔っ払いだ。お前達を道案内するには、呑み過ぎた。だからここに残って、お前達の帰りを待つ。道案内はできない。お前達二人で切り開け」
 テティスは真剣な眼差しで頷くと、ラム小父さんを軽く抱擁してから、立ち上がった。
 「弟よ。行くぞ。時間が惜しい」
 「やっぱりそういう設定なのか」
 僕は若い男から小銃を取上げると、立ち上がった。
 「気をつけてな」
 ラム叔父さんが杯で乾杯の姿勢を取ると、僕達は目礼してから、その場から立ち去った。
 「小父さんは策士だな」
 「いや、ただの飲んだくれだよ。でもお酒は役に立った」
 僕達二人は、大広間から下半球へと伸びる大階段を見つけると、急いで駆け下りた。

 どの空中都市でも、上の居住区は、一般に解放されているが、下半球内部は一般人の立ち入りを禁止している。下半球内部は、軍や政府、あるいは国によっては、王族や神官などが管理している。空中都市の心臓とも言える、重力機関があるのだから、当然の措置かもしれないが、その一方で下半球内部は、遺失技術の宝庫とも言われている。
 ブランの場合、都市国家が消滅してから歳月が経過しているので、下半球内部には、目ぼしいものは残っていない。無論、ブランの重力機関は残っているが、死んでいると思われているので、そのまま放置されている。
 僕達二人が入ったブランの下半球は、奇妙な構造をしていた。基本的には通路、部屋、階段の繰り返しなのだが、どこがどこに通じているのか、よく分からなかった。おまけに通路や部屋が、ゴミで塞がっていたりして、通れない箇所もあった。また上の居住区とは、全く異なった材質でできているのか、歳月の経過にもかかわらず、どの壁にも損傷している様子が全くなかった。通路は無機質で、部屋には、用途の分からない機械が放置されていた。
 「ここは宇宙船に似ている」
 テティスは歩きながら、僕に念話した。
 「恐らく船体をそのまま流用したのだろう」
 「それじゃあ、ここは元宇宙船だった所なの?」
 「その可能性は高い。船体と重力機関を切り離す手間が省けるからな」
 僕は改めて、重力機関とは何だろうと思った。
 「重力機関って一体何?」
 テティスは立ち止まって、僕を見た。
 「簡単に言えば、重力を利用した永久機関だ」
 それは僕も知っている。だが今は、もっと詳しい話が聞きたい。
 「どんな物質にも重さがあり、引力がある。知っているな」
 僕は頷いた。
 「万有引力は謎の力だ。誰でも計測できるが、誰もその原理を説き明かせない。物質がそこにあるだけで作用する。エネルギーは減らず、作用は永続する。大質量ともなれば、時間と空間にも大きく作用する。だが力として考えた時、これほど便利なものはない。無料だからな」
 テティスは、再び歩き始めた。僕はその後ろに続いた。
 「これは同じ力の別の言い方に過ぎないが、惑星には重力があり、物質には引力がある。重力の相互作用だ。多くの場合、惑星の地表では、惑星の重力が物質の引力に勝っているから、物質は惑星の地表に落下する。だがこの力を裏返したらどうなる?」
 物質は、空に向かって飛んで行くだろうと思った。
 「物質は惑星の地表から、脱出速度で離れる。だがそこで物質の引力を使って制動をかける。すると重力と引力の均衡点で物質は浮く」
 その理論は僕も知っている。昔、本で読んだ事がある。
 「空中都市の重力機関はそれでいい。地表から浮いてさえいればよいからな。だが宇宙船の重力機関は違う。時間と空間を跳躍する装置だ」
 僕は答えずに、テティスの解説を待った。
 「重力は、時間と空間にも作用する。宇宙船の重力機関は、時間と空間を捻じ曲げる重力を発生させて、異次元の入口を作る。宇宙船は一時的にその存在形態を変えて、異次元を通る。そして目的地に設定した出口から飛び出して、元の存在形態を取り戻す」
 全く分からない話だった。彼女の話は、僕の想像を超えていた。
 「この航法を使えば、光より早く宇宙船は移動できる。これが重力機関の本当の使い方だ。空中都市を浮かすという使い方は、重力機関の初歩的な使い方でしかない」
 長旅に疲れたマリアン人は、再び宇宙に出る事を止めて、地表に留まる事を決意した時から、重力機関の本来の使い方を忘れ始めたらしい。僕は先祖の気持ちが何となく分かる気がした。だが文明の衰退が始まったのは、その時からだろう。
 「テティスは、本来の使い方で宇宙を旅して、この星にやってきたんだね?」
 僕がそう尋ねると、テティスは沈黙した。
 「ねぇ、宇宙はどんな所?時間と空間を越えるのはどんな感じ?」
 テティスは僕を見た。
 「この星の人間もいずれ知る時が来る」
 僕は不満だった。テティスはいつだって、自分に関する事は話そうとしない。
 「知らない方がいい事もある」
 分かった。それならもう君の事は訊かない。自分から話すまで待つ事にするよ。
 「すまない、ジュリヤン。今は状況がよくない」
 僕は特に何も答えず、テティスと並んで歩いた。彼女は僕の横顔を窺ったようだったが、それ以上何も言わず、黙って歩いた。念話が使えるようになって、僕は以前より、感情の起伏が激しくなったような気がした。だがそれが本当に念話のせいなのか、よく分からなかった。

 重力機関の間に辿り着くと、僕達二人は明かりで、それを照らし出した。空中都市の重力機関を見るのは、僕も初めてだった。水上機のそれが箱ぐらいの大きさなら、空中都市のそれは家ぐらいの大きさがあった。外見も水上機のそれみたいに、単なる黒い箱ではなかった。
 「どうやらこれがそれらしいね」
 僕がテティスを見ると、彼女も頷いた。
 「間違いない。反重力反応がある。この装置は生きている」
 ブランの重力機関は、光の届かない下半球最深部に鎮座していた。僕が明かりを持ち上げて、全体を照らすと、それは白くて透明なピラミッド型の装置だった。そして明かりのせいで、内部で光が反射して、周囲に幾つも不思議な光の帯を投げかけた。
 「何この模様?」
 よく見ると、光の帯に何か模様が流れていた。文字だろうか?
 「明かりを下げて」
 僕が明かりを下げると、テティスは床を歩いた。
 「これが入力装置か」
 テティスは、マリアン人が操作盤と呼んでいる、台形の石碑の前に立った。彼女は手を青く光らせると、台の上をゆっくりと掃くように動かした。だが何も反応はなかった。
 「やはり死んでいる。本体に命令が伝達できない」
 「動かせないの?」
 僕がそう尋ねると、テティスは改めて重力機関を見上げた。
 「そんな事はない。だがこのままでは操作できない」
 「操作できれば動かせるの?」
 「そうだ。本体は死んでいない。休止状態にある」
 テティスは、白くて透明なピラミッドを指差した。外側は硝子の箱のように見えるが、内部はまるで液体金属が流れているみたいに、何かが冷たく流動していた。そして光が当たると、外の壁に向かって光の帯が放射されて、文字のような模様が浮かび上がって流れた。
 「やはり読み取り装置は光学式だな。何とかなりそうだ」
 テティスは右手首の内側を見ていた。今まで気がつかなかったが、彼女は腕時計に似た小さな機械をつけていた。彼女が行う不思議な仕事は、全てあの道具の力なのかもしれない。
 「どういう事?」
 「光の信号を読み取って、あの本体は命令を実行するのだ」
 テティスの説明はよく分からなかったが、とにかく彼女は復旧作業に取り掛かった。空中に青い窓を幾つも開き、右手首の装置から本体に向かって、何度も光の帯を送信していた。しばらくの間、僕はただ横に立って、彼女の作業を見守るしかなかった。
 「よし!命令を認識した!再起動する」
 珍しくテティスが叫ぶと、僕は小父さんの警告を思い出した。
 「待って」
 「何だ?」
 「ブランに住む人達に警告を出した方がいい」
 「避難勧告か。だがどうやって?」
 それは僕にも分からない。
 「この島の通信設備は生きているのか?」
 「多分死んでいる」
 「警報装置の類はあるか?」
 そんなものはない。
 「なら無理だ。あの海の民に期待するしかない」
 それはあまり期待できない。仮に大浮上の話を信じてもらえたとしても、全員に話が行き渡るには、時間がかかるだろう。僕は必死になって考えた。
 「なるべく穏やかに浮上させる」
 「待って」
 「ジュリヤン」
 テティスがこちらを見た。僕は考えた。そしてひらめいた。
 「地震だ!浮上させる前に横揺れさせるんだ。そうすれば、皆安全な場所に避難する」
 「なるほど、それはいい手だな」
 テティスは微笑んだ。
 「だが地震は浮上より難しいぞ。横揺れする空中都市なんて見た事あるか?」
 僕はない。だが地震は横揺れとは限らない。
 「縦揺れでも構わないんじゃないの?」
 テティスは驚いたような顔をして僕を見た。
 「正気か?そっちの方が危険だろう?」
 そうかもしれない。だが何らかの予兆を与えないと、皆避難してくれないと思う。
 「とにかく、一度稼動させてみたい。いいな?」
 僕は頷いた。問題あるけど、ここまで来たら、僕も浮上させてみたい。
 「今から浮上する。衝撃に備えろ」
 テティスが警告した。すると不意に階段を踏み外したような感じがして、島全体が鳴動し始めた。そしてゆっくりだが、確実にブランが浮上した。だがまた転落の感覚を味わった後、大きな衝撃が襲ってきた。大音響と共に、僕達二人は思いっきり床に倒れた。
 「これが縦揺れかい?」
 「要求通りにできそうにない」
 僕が起き上がると、テティスは新たな命令を、重力機関に送信した。すると周囲が一変して、島の外の景色が、ほぼ全周で見えた。思わず足がすくむ。まるで空中にいるかのようだった。ブランが上昇しているのがよく分かる。実に数百年ぶりの復活だったかもしれない。
 「ゆっくり浮上させてくれ」
 僕は思わず、テティスの左腕を掴んでそう叫んだ。
 「分かった」
 テティスは額に汗を流していた。見ると、瞳の色も、髪の色も、赤っぽく変化していた。
 「落ち着いて、テティス。乗っているのは僕達だけじゃないんだ」
 怪我人が出ない事を祈ったが、それは贅沢すぎたかもしれない。だがせめて死者が出ない事を祈っても、それは贅沢ではないだろう。僕は衝撃に備えながら、テティスを支えた。
 「五分間、浮上を停止する。そしてまた五分間浮上する」
 テティスはそう言うと、新たな命令を重力機関に送信した。
 「うん。それがいい」
 僕は改めて全周を見渡した。ブランから飛び立って行く水上機が、何機か見えた。すでに海は下にあり、色々な物が島から落下して、海面を白く泡立てていた。
 大浮上。僕はその現実を目の当たりにして、何も考える事ができなかった。思えば、この時から僕達二人は、この星の運命から、決定的に逃れられなくなってしまったのかもしれない。だが滅び行くラ・マリーヌの文明に、再生の光が射した瞬間も、この時だったかもしれない。

                             第一章 了

『空と海の狭間で』4/10話 第二章 紅い皇子


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