[書評]英文法の「なぜ」
朝尾幸次郎『英語の歴史から考える 英文法の「なぜ」』(大修館書店、2019)
イギリス英語で 'I have class' と言えるか?
例えば、〈イギリス英語で 'I have class' と言えるか?〉のような質問に本書は答えてくれるかというと、結論から言えばそうでもない。本書はむしろ、〈不定詞に to がつくのはなぜ?〉のような問いに答える文法書。
どういうことか。前者は現代英語の知識と現代英国の常識とがあれば考察が可能。対して、後者は英語の文法の歴史をひもとかなければ考察が不可能な問題である。
つまり、本書は、英語を歴史的に解きあかすことで、現代英語の一見して不可解な文法的側面をすっきりさせることを目的としている。そのため、分野としては英語史と形態論が中心。残念ながら音韻論は扱わないと最初に宣言される(実は所々で言及はある)。
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この性格から、本書は英文法の教師向けの本とはいえる。が、日頃、辞書として OED を引いている人、もしくは最低でも歴史原則で編纂された辞書を引いている人なら、興味深く読めるだろう。音韻論が含まれないので、詩を研究している人間にとっては、ある程度の参考にしかならない。
英語の歴史に純粋に興味があり、読んでみたい場合は、OED や歴史原則で編纂された辞書がなくとも、少なくとも語源欄が充実した辞書くらいは手許にないと、ここに書いてあることが、ほとんど確認できないだろう。できれば、簡単なものでいいから、英語史の本がかたわらにあると理解しやすい。
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本書の内容にふれるには、英語史の前提となる枠組を示す必要がある。いろいろあるが、その中でも、英語の次の4つの段階については最低限おさえておかねばならない。
OE (古英語) 449年〜1100年頃
ME (中英語) 1100年頃〜1500年頃
ModE (近代英語) 1500年頃〜1900年頃
PE (現代英語) 20世紀以降
なお、ModE の前半である次の段階は、シェークスピアや欽定訳聖書の英語の時代であり、特に重要である (初期近代英語は EME, EModE, EMnE などと略されることもあるが辞書にとられるほどポピュラーでない)。
初期近代英語 1500年頃〜1700年頃
本書のアプローチは、現代の英語の姿 (PE) を OE 以来の英語の歴史で説明するというもの。中でも最もよく言及されるのが OE, ついで ME. また、シェークスピアや欽定訳聖書の英語は現代にも生きているので、必然的に初期近代英語もよく例に出される。
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著者の説明は概して分りやすい。現代の英語の文法上の謎が、OE や ME を引合いに出すことによって次々と解きあかされていくさまは痛快である。
しかし、著者の OE 理解や ME 理解が正確なのかと問われると、そこは何ともいえない。説明のために簡略化したり、諸説を強引にまとめたりしていないか、疑問は残る。
著者の専門領域は、インターネットと英語教育、コーパス言語学、異文化間コミュニケーション等であり、特に OE や ME に関るものではない。挙げてある参考文献は重要なものが多いが、専門家がみると物足りないだろう。
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著者の最大の強みは、分りやすい説明以外に、用例に語らしめている点である。興味深い実例を幅広く丹念に拾い上げ、適切に配してある。ただ、用例の年代はやや古めである。
この用例主義は、著者が最も信頼を寄せる OED (Oxford English Dictionary) の編集方針そのものである。OED が用例の宝庫であることは、OED を引くすべての人が知っていることである。
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ここから本題。多岐にわたる内容のうち、おそらく著者が最も関心があると思われる動詞の問題について。
〈動詞の形で見れば時制は現在形、過去形の2つであることはあきらかです。〉(70頁)
つまり、〈英語の動詞に未来形はありません〉(70頁) ということになる。もっとも、George O. Curme は現代英語に未来形を認めているが、文法学者では例外的。
これをふまえた上で、OE (古英語) の動詞 singan (歌う) の活用形を眺める (60頁、表6.1)。この表が本書の核心部分のひとつ。
不定詞 singan (-an)
直説法 現在 過去
単数 1人称 singe (-e) sang (-a-)
2人称 singest (-est) sunge (-u- -e)
3人称 singeþ (-eþ) sang (-a-)
複数 singaþ (-aþ) sungon (-u- -on)
仮定法 現在 過去
単数 singe (-e) sunge (-u- -e)
複数 singen (-en) sungen (-u- -en)
命令法
単数 sing (-)
複数 singaþ (-aþ)
現在分詞 singende (-ende)
過去分詞 (ge)sungen (-u- -en)
PE (現代英語) に比べれば複雑な活用だが、これを頭に入れて読めば本書は驚くほど面白い本であることが分る。
念のため、PE (現代英語) の動詞 sing (歌う) の活用形も見ておく(61頁、表6.2)。
原形 sing
3人称単数現在 sings (-s)
過去 sang (-a-)
現在分詞 singing (-ing)
過去分詞 sung (-u-)
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上の表をみて直ちに分るのは、不定詞は元来 to が付いていなかったこと。PE (現代英語) では5つの形を知ればよいということ (命令法=原形、仮定法過去=過去)。
ここから、冒頭に記した〈不定詞に to がつくのはなぜ?〉の問いの考察までは、英語史の講義で一年近くかかる。しかし、本書を最後までじっくり読めば、おおよそのところが頭に入る。できれば、OED を引きながら読めば理解しやすい。
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このような長い期間の歴史的考察を要する問題は、これ以上ここではふれられないが、すぐに分る興味深い点を一つだけ挙げておこう。
PE (現代英語) の知覚動詞 (see, hear, feel) と使役動詞 (make, have, let) で、なぜ原形不定詞 (=動詞の原形、すなわち to の付かない形) が共起するのか、の問題。他の動詞では to 不定詞と共起するので、この違いは、ぱっと見ると理解しにくい。
まず、例文。知覚動詞と使役動詞の例。
In space no one can hear you scream. (映画「エイリアン」)
Let me try it on. (『シンデレラ』)
次は他の動詞の例。
I want you to listen very carefully. (映画「主人公は僕だった」)
Oh, well, allow me to retort. (映画「パルプ・フィクション」)
以上の使い分けは、英語の歴史のなかで形成されてきた (古くは知覚動詞と使役動詞の to 不定詞との共起は珍しくなかった)。したがって、この使い分けの理由を知るには、やはり歴史的考察が必要になる。しかし、ここでは、現代英語における結論だけをみてみよう。
本書では Patrick J. Duffley の説を援用して説明している。使役動詞についての説明である (知覚動詞については、明示されていないが、おそらく同様のことが言えるのだろう)。
結論からいえば、使役動詞の表す行為は「同時性・一体性」を有する。それに対し、動詞 advise, allow, force などが表す行為は「方向性・順序」の感覚がある。
例文。使役動詞の例。
I like you. You make me laugh. (映画「ガン・ホー」)
動詞 force の例。
The emperor Caligula . . . once forced a man to watch the execution of his own son, then invited him to dinner and forced him to laugh and joke. ('The Independent' 紙の書評、2014年5月2日付)
使役動詞の行為の「同時性・一体性」の意味が to 不定詞の表す方向性とは折合わない。ゆえに原形不定詞を用いる。
advise, allow, force などの動詞は「〜する方向に(→するように)」という方向・順序の意味を持つので、方向という原義をもつ to 不定詞と折合う。ゆえに to 不定詞を用いる。
以上のように、この結論に至る過程で to 不定詞の歴史的考察をふまえている。
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おまけ。冒頭の問い〈イギリス英語で 'I have class' と言えるか?〉は、言えない、が答え。なぜなら、本当に class を有する人は自分からはそう言わないから。日本でも「xxの宮」のような方が自分からそれを言うことはないだろう。
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