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[英詩]Bob Dylan, 'Eternal Circle'

※ 旧「英詩が読めるようになるマガジン」(2016年3月1日—2022年11月30日)の記事の避難先マガジンです。リンク先は順次修正してゆきます。

英詩のマガジンの本配信、今月の3本目です。「歌われる詩」の回です。

今回はボブ・ディランの 'Eternal Circle' (録音1963年、アルバム 'The Times They Are A-Changin'' のアウトテーク[とは言っても12テークも録音された]) を取上げます。

ディランの通常のアルバムには収められていませんが、録音の27年後に、公式ブートレグ・シリーズの 'The Bootleg Series, Vol 1-3: Rare & Unreleased 1961-1991' (1991) に入りました。

最初の録音セッションではギターのフィンガーピッキングでメロディを弾いていたのが、その後のセッションではフラットピッキングに変わったといわれ、そのフラットピッキングのテークが 'The Bootleg Series, Vol 1-3' に入っています。ギターのチューニングがよく、ボブの歌の調子がよかったならば、当然、本アルバムに入ってしかるべきであった重要な歌です。

公式ブートレグ以外に、非公式ブートレグ (本物の海賊盤) がいろいろあると思われますが、あるテークは公式ブートレグとは違うテークで、ギターのチューニングが公式よりよいように聞こえます。フラットピッキングのテークです。

この歌は「歌についての歌」であると言われています。そう言われるわけは、歌い手の方は、聴衆の女の子が彼に魅せられていると思ったものの、実際には彼女は歌に魅せられていたからです。

つまり、重要なのは歌い手ではなく、歌だというわけです。その意味では、もう一つの歌についての歌 'Mr. Tambourine Man' を考える上でも重要な歌です。

同様の主題を扱う 'Lay Down Your Weary Tune' と合わせ、この種の、歌についての歌というグループの最初の、基礎をなす作品となったのが、この 'Eternal Circle' で、その意味ではディランにとって重要な歌と考えられます。

録音は 'Eternal Circle' が1963年の8月7日、8月12日、10月24日、'Lay Down Your Weary Tune' が1963年の10月24日、'Mr. Tambourine Man' が1964年6月9日、1965年1月15日です。

英文学研究者のリクス(Christopher Ricks)は、著書『ディランの罪のヴィジョン』'Dylan's Visions of Sin' において、この歌を「愛」(charity) の歌に分類しています。

これが作られた頃には、ジョーン・バエズを初めとして、私のことを唄っているに違いないとおもう女性がいたことでしょうが、そういう個人的な愛の歌という面を超えて、この歌はある種の普遍性をもっています。どんなところがそうなんでしょうか。今回はそのあたりをながめてみましょう。

目次
愛の詩
原詩
日本語訳
韻律
 eyes
 n のひびき
解釈

※「英詩が読めるようになるマガジン」の本配信です。コメント等がありましたら、「[英詩]コメント用ノート(201801)」へどうぞ。

この定期購読マガジンは月に本配信を3回配信します。そのほかに副配信を随時配信することがあります。本配信はだいたい〈英詩の基礎知識〉〈英語で書かれた詩〉〈歌われる英詩〉の三つで構成します。2016年11月から主要な内容をボブ・ディランとシェーマス・ヒーニでやっています。英語で書く詩人として最新のノーベル文学賞詩人たちです。

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愛の詩

ディランはロバート・グレーヴズ (1895-1985) について次のように語っている。

'You know, I like Robert Graves, the poet. Do you?'
「ね、ぼくはロバート・グレーヴズが好きなんだ、詩人の。きみは好き?」

この発言は Anthony Scaduto, 'Bob Dylan' に出てくる('1961: Bob Dylan's Dream' の章)。スカドゥートは、グレーヴズの本は読み終えたところだと答え、続けて、「ディラン・トマスはどう? ディラン・トマスは好き?」と逆に訊いたところ、ディランは、にやっと笑い、ディラン・トマスは好きだと語ったという。

リクスはグレーヴズを20世紀の愛の詩人といい、特に、愛の個人性と愛の一般性の結びつきを意のままに扱ったと評価する。

ディランとゆかりが深いバラッドの研究の方面でもグレーヴズは有名だ。そのあたりのヨーロッパの詩の深層をえぐり出す 'The White Goddess' の著者としてもグレーヴズは重要な人物だ。ディランが若い頃からグレーヴズの詩を読んでいたとは意外な気もするが、ある意味、納得させられる。詩的な物の見方に相通ずるところがあるのだろう。

グレーヴズとディランの詩を読んで、愛という個人的な、強い感情が、他の人のそれと似ていると知ることは、読者や聴き手に深い安堵感をもたらすとリクスはいう。

'I Don’t Believe You (She Acts Like We Never Have Met)' の中ではディランは次のように唄っている。

But if you want me to
I can be just like you
でもきみが望むなら
きみみたいになれるけど

この場合は皮肉が感じられるが、このような言葉を、他の歌では、まともに受け取ってもよい場合もあると考えられる。

ふつうであること、他人と似ていることを恐れる気持ちが私たちにはある。人と似ていることは自分の独自性の否定のように思われるからだ。しかし、愛の感情が他の人のそれと似ていると感じさせる歌や詩には、私たちも感謝の念を抱くとリクスは指摘する。そういういい例がディランやグレーヴズだというわけだ。

愛の歌 (love song) についてもう少し考えてみる。リクスはラヴソングにおける「想像」の要素に目を向ける。

A love song imagines someone in love, someone to love and be loved by.
愛の歌は恋する誰か、つまり、愛の対象である誰かと、愛してくれる誰かのことを想像するものである。

この場合の恋は、多くの場合、失恋であるとして、こういう。

Perhaps someone to grieve the loss of, since love songs are often many too many mournings.
たぶんその誰かとは、その人を失って悲しい誰かのことだ、というのも、愛の歌はしばしば、大いなる嘆きの歌だからだ。

ここでリクスが使った 'many too many mournings' は、'One Too Many Mornings' 「一つだけ多すぎる朝」をふまえているのだろう。ここでは、「一つだけ」でなく「多すぎるほど多い嘆き」という意味になる。

そういう失恋の相手はリアルな存在であり得る。しかし、その場合でも、その相手のことを想像する必要があると、リクスはいう。

imagination is no less necessary when the engagement is with a figure who is far from imaginary.
想像力は(相手が想像上の人物の場合と)同じように必要だ、想像とは程遠い現実の人間が相手であっても。

ただ、現実の人間が相手の場合は、想像が担う責任は、虚構の場合とは変わってくるけれどもといって、有名な 'Sara' の例を挙げている (Sara はディランの妻だった)。

リクスのおもしろいのは、ここからさらに、ラヴソングの責任について踏込むことだ。

the love song has a further responsibility: not just to imagine love but to love singing. Love song? Yes, he does. He loves it in itself and for itself. Over an over and above.
愛の歌にはさらなる責任がある。愛を想像するだけでなく歌うことを愛するという責任だ。歌を愛する? そう、それを彼はやっている。歌それ自体を、それ自体のゆえに愛しているのだ。何度も何度も、なおその上に愛している。

'Eternal Circle' は魂を奪うばかりの影のダンスであり、そこには3組のパートナーがいるという。最初の組は、男と女との組だ。2番目の組は、女に対する愛と歌に対する愛との組だ。3番目は、我々が聴いている歌と我々がそれについて聞いている歌との組だ。

この歌の女は、たまたま、まったく知らない人物だ。だけど、そのせいで満足がゆかない歌になるかというと、そんなことはない。人の愛の生活は、しばしば、想像上の生活と親密な関係にある。逆に、知っている人間は、その想像上の生活を邪魔したりする。だから、想像をめぐらせる人物は、知らない人間が一番いい。

何が言いたいかというと、愛の想像をめぐらせるなら、相手が知らない人の方がいいこともあるということだ。その方が自由に想像を働かせられる。

知らない人ということでいえば、コンサート会場に来ている聴衆の「目には」、あるいは「暗い目には」('dark eyes' [アルバム 'Empire Burlesque' に 'Dark Eyes' という歌がある])、また「足元の百万の顔」('A million faces at my feet' ['Dark Eyes' の歌詞の最後の詩行]) にとっては、歌い手は知らない人ではない。逆に、聴衆は歌い手にとっては知らない人である。

この観点からいうと、アルバム 'Empire Burlesque' の 'Dark Eyes' を解くヒントがこの歌から得られるかもしれない。

それだけでなく、このアルバム・タイトルの 'burlesque'「笑劇」ということばは、この歌を解く大事な鍵であるとも考えられる(後述の「解釈」参照)。

動画リンク [Bob Dylan, 'Eternal Circle']


原詩

Eternal Circle
Bob Dylan

I sung the song slowly
As she stood in the shadows
She stepped to the light
As my silver strings spun
She called with her eyes
To the tune I’s a-playin’
But the song it was long
And I’d only begun

Through a bullet of light
Her face was reflectin’
The fast fading words
That rolled from my tongue
With a long-distance look
Her eyes was on fire
But the song it was long
And there was more to be sung

My eyes danced a circle
Across her clear outline
With her head tilted sideways
She called me again
As the tune drifted out
She breathed hard through the echo
But the song it was long
And it was far to the end

I glanced at my guitar
And played it pretendin’
That of all the eyes out there
I could see none
As her thoughts pounded hard
Like the pierce of an arrow
But the song it was long
And it had to get done

As the tune finally folded
I laid down the guitar
Then looked for the girl
Who’d stayed for so long
But her shadow was missin’
For all of my searchin’
So I picked up my guitar
And began the next song

(注)
1連1行は 'I sung the song slowly' (リクスによる) であり、流布版テクストの 'I sang the song slowly' と異なる。リクスは、ディランが 'sung' と唄っているとし、関連して、T. S. エリオットがテニスンについて述べた文章に言及している。テニスンが 'Mariana' で'The blue fly sung in the pane'「青蝿が窓のところで鳴いていた」と書いた例について、エリオットが「'sung' を 'sang' と代えれば詩行は台無しになる」と指摘しているのである ('Selected Essays', 1951)。また、'sang' の別の形では、リクスは、ディランが 'Yeah, the locusts sang and they were sanging for me' と唄った例についても言及し、流布版テクストの 'they were singing' と違い、この 'sanging' の言い方は「過去の継続」(continuing past) と「永遠の過去」(eternal past) を表すと主張している。このように、リクスはディランが実際に唄っている形を尊重した上で議論している。


日本語訳

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