おわりのやすけさ
くすしきやすけさ。
曽野綾子さんが産経新聞の連載を終えた。
その文章はネット上で読めないのでいちぶ書きぬく。
何かが「終わる」のは悲しいことだ、という人もいるけれど、私はすべての物ごとに終わりがあることを深く感謝している。(中略)
アウシュビッツの拘束、政治的圧迫、病気の最終段階、すべて終わらないと困る。だからだろうか、世間の多くの制度や技術は何かを終わらせるために知恵を絞って開発されてきたようにさえ、思えることがある。(中略) 始める、始まる、のも大切だが、終わりも貴重な変化だと知った人間が、あらゆる状態に備え、知恵を絞って収束方法を考え出してきたのだ。終わりを祝福する、という思いが、もっとあってもいい。
「透明な歳月の光」843 〈最終回を迎えて〉20190327
連載は23年続いた。そのうちどれくらいを読んだか記憶にないが、その文章は、しばしば、曽野さんの単行本よりよかった。書籍に集まると、短い文章のそれぞれの印象が薄まるのかもしれない。
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ひとつだけ、神学的感想を述べると、この考え方の背後には時間観がある。
直線的時間観だ。円環的時間観とは対照的。
始めがあり終わりがある。始まりから一直線に終わりにむかう。
対して、同じような時間が繰返す。円環の同じ地点で同じようなことが起きる。らせんをえがく。
直線的時間観はユダヤ教やキリスト教の時間観。円環的時間観は例えば古代ギリシアやインド。
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ひるがえって、どうして曽野さんは連載を終えたのか。
平成最後の回にあたってということも、あるのだろう。
その他もろもろのことがからむのかもしれない。
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かつてある雑誌に隔週の連載をしていたことがある。そのときは、連載の終了は編集者から言われた。
そういう形もある。自分から連載を終えることもあるだろう。
どちらがいいともいえない。
曽野さんはどちらだったのだろう。
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