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[英詩/書評]「ニューズウィーク日本版 2016年10月25日」

※ 旧「英詩が読めるようになるマガジン」(2016年3月1日—2022年11月30日)の記事の避難先マガジンです。リンク先は順次修正してゆきます。

「詩人ボブ・ディラン」特集号(2016年10月18日発売)。ディランのノーベル文学賞受賞が発表されたのが2016年10月13日。1週間足らずでまとめたにしては充実した内容だ。買う価値はある。

特集が始まる前のU.S.Affairs/PERISCOPEのページに、特集とは反対の方向の文章がある(16頁)。ニューズウィーク独自の記事といえるのはワイスの記事と2004年のインタビュー再録を除けばこれだけなので、かえって興味深い。

スティーブン・メトカフ(批評家)「ボブ・ディランの歌詞はノーベル賞に値せず」('He shouldn't have gotten the Nobel')

ディランの世界に対する貢献の例としてメトカフが挙げるのは次の例だ。

〈ジョン・レノンはディランに会うまで、ポップ音楽で「ラブ・ミー・ドゥ」以上のことは表現できないと考えていた。当時、レノンの頭の中は階級への怒りや壮大なアイデアで煮えたぎっていた。彼は自分の中で起きているカオスを芸術に昇華させるため、ディランにあう必要があったのだ。〉

レノンとディランの関係は確かに重要だ。しかし、メトカフの次の指摘はどうだろう。

〈文学とは静かに自分に向けて読むものだ。静寂と孤独は読書と不可分の関係にある。読書こそ文学に向かう唯一の道である。
 文学が静かで孤独な活動である、という考え方が生まれたのは、ルネサンス期に活版印刷術が発明された後のこと。静かな読書は人と人が交錯する場面をつくり出す。そのページに書かれた誰かの声が、私の声となって私の頭の中で鳴り響く。〉

文学をこう捉えるかぎり、ディランに文学賞を与えることは認められないという結論になるだろう。それとは正に反対の理由をノーベル文学賞委員会が挙げている。ホメーロスやサッフォー以来の歌われる詩こそが文学の原点であり本流であるという観点に立てば、結論はまるで逆になる。

おそらく、メトカフにとって、文学とは近現代に新たに出現した小説というジャンルを指すのだ。だから、こういう。

〈ディランが後代に向けて訴えてきたことは、村上春樹やフィリップ・ロスの物語より壮大かもしれない。それでも、ポップ・ミュージシャンに文学の最高賞を与えることは話が別だ。文学という言葉の定義にも反している。〉

文学とはもともと歌われる詩であるという観点に立てば、メトカフのこの文学観は間違っている。それはメトカフもおそらく自覚している(「たぶん、私の考えは間違っているのだろう」)。

※「英詩が読めるようになるマガジン」の副配信です。コメント等がありましたら、「[英詩]コメント用ノート(201612)」へどうぞ。

目次
・ジェフ・エッジャーズ(ワシントン・ポスト紙記者)「文学の殿堂に迎えられたアメリカの『詩人』」('Another prize for Bob Dylan')
・アリッサ・ローゼンバーグ(ワシントン・ポスト紙コラムニスト)「本領はショートストーリー」('Dylan's storytelling genius')
・デービッド・ゲーツ「すべてを語ったボブ・ディラン」(The book of Bob)
・デービッド・ワイス「ディランの歌声に秘められた意外な歌唱力」(Wrong about Dylan)

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ジェフ・エッジャーズ(ワシントン・ポスト紙記者)「文学の殿堂に迎えられたアメリカの『詩人』」('Another prize for Bob Dylan')

特集の1本目(20-22頁)は音楽家や作家の賛辞を取上げる。

ロジャー・マッギン(ザ・バーズの元リーダで、バンド解散前にディランの作った曲を20曲以上レコーディングした)はこう言う。

〈彼と仕事をするのはシェークスピアを学ぶようなものだと、いつも思っていた〉

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