[書評] 葵
紫式部「葵」(11世紀)
そらに乱るるわが魂を をめぐって
源氏物語の第9帖「葵」の全体ではなく、「そらに乱るるわが魂を」の歌(源氏物語和歌番号117番)の諸問題についてふれてみる。
この歌は六条御息所(源氏の恋人)がもののけとなって葵(源氏の正妻)にとり憑く物語の中に出てくる。弱った葵の様子を心配して加持祈祷を行わせている最中に、源氏の前で葵の声がする。
嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがへのつま
大まかに言って、この歌には次の問題がある。
① 歌のテクスト
② 誰が誰にあてた歌か
③ 「したがへのつま」とは何か
④ 褄を結べば迷い出た魂が元に戻るという信仰は本当にあるのか
初めに断っておくが、①と④については評者は答えを持ちあわせていない。①については「したがへのつま」と「したがひのつま」の二種あることしか知らない。④は民俗学の課題だろう。でなければ、架空のものだろう。
*
「辻褄を合わせる」という表現がある。本歌についての定説では〈褄を結ぶ〉という無理な解釈が通っているが、褄は結ぶものでなく合わせるものではないかとの、〈古典の改め〉サイトの主張は尤もに思える。
上記の定説は、〈褄を結ぶ〉ことにより迷い出た魂が元に戻るという信仰があったという前提を置いて、本歌を解釈しようとするものである。これは本当に民俗学的に裏づけがあるのか。
ちなみに、殆どすべての現代語訳は、その〈定説〉にならって訳している。
例えば、〈嘆きのあまりに身を抜け出て空にさまよっている 私の魂を、下前の褄を結んでつなぎとめてください〉(全集)のように。「下前の褄」とは「したがへのつま」の、定説における解釈である。下前とは〈着物の前を合わせたときに下側になるほう〉(『源氏物語』三省堂、142頁)。褄(裾の端)と夫(つま)は掛詞。
いわゆる「全集」とは、小学館の日本古典文学全集で、『源氏物語』は1970-76年に刊行された。一方、テクストの底本として使われることの多い岩波書店の日本古典文学大系の『源氏物語』は1958-63年に、新日本古典文学大系のそれは1993-97年に刊行された。
ここから予想されることながら、全集や大系以降に出版された英訳本は、これらの定説を踏襲している。
新しいほうから見てみる。
ウォシュバーン(Dennis Washburn)訳(2015)。
Bind the hems of my robes
To keep my grieving soul
From wandering the skies
タイラ(Royall Tyler)の57577に揃えた訳(2001)。
This spirit of mine that, sighing and suffering, wanders the heavens,
oh, stop it now, tie a knot where in front the two hems meet.
サイデンスティカ(Edward Seidensticker)の訳(1976)。
Bind the hem of my robe, to keep it within,
The grieving soul that has wandered through the skies.
これらは上に見た全集の解釈と方向が同じである。
ところが、これらよりずっと古い、日本側の定説が出る前のウェイリ(Arthur Waley)の訳(1925-33)は少し違う。
Bind thou, as the seam of a skirt is braided, this shred, that from my soul despair and loneliness have sundered.
ここでは、褄(skirt)への言及はあるものの、それが比喩として扱われている。主眼は this shred(切れ端)のほうである。この this shred を despair and loneliness が my soul から切離したというのだ。
この訳だと、this shred は my soul にほんらい備わるものとのニュアンスが浮かぶ。魂に関る shred とはどんなものだろうか。
shred は細長い切れ端を含意するから、着物の裾の端のようなものでもかまわないが、魂に関るとしたら、糸状のもの、もっとはっきり言えば魂の緒が連想される。魂と体とを結びつけるのが魂の緒だ。
源氏物語のこの場面では、六条御息所の魂は自らの体を離れて葵のところに来ている。車争い[賀茂の新斎院の御禊の日、行列に加わる源氏を見に来た葵と六条御息所との間で車争いが起こり、六条御息所は悲惨な目にあう]の屈辱的な事件以来、御息所の奥深くで魂がこらえきれなくなった。意識下の自分のあずかり知らぬところで、ついに魂が遊離してきたのだ。
その遊離した魂に仏僧らによる読経の嵐(法華経を誦みつづける)が襲いかかり、苦しめている。その祈祷をゆるめてくれと御息所は源氏に懇願する。
その目的は何か。定説がいうように魂を元に戻してもらいたいのか。だが、それはよく考えるとおかしい。
ここで、定説に沿う説明を確認しておく。〈当時、下前の褄を結ぶと、迷い出た魂がもとに戻るという信仰があったという〉(『源氏物語』三省堂、142頁)という説明に、はっきり〈もとに戻る〉とある。つまり、御息所の自分の体に戻るということだ。
これは別に源氏に頼まなくても、帰ればよいだけのことである。加持祈祷が苦しいのなら、そこを去ればよいだけだ。
すると、ここでは、別の目的があると考えられる。
歌を確認する。
嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがへのつま
ここから、詳しく分析してみる。
第1句「嘆きわび」(嘆いて思い悩む)
第2句「空に乱るる」(宙に惑う)
第3句「わが魂を」(自らの魂を、即ち六条御息所の自分の魂を、の意であることが、本歌のあとの文脈から明らか)
第4句「結びとどめよ」(繋ぎ止めよ)
第5句「したがへのつま」(従えの[命に服する]妻、即ち源氏の妻である葵。「従え」の命令は御息所が発する)
以上を合わせると、次のようになるか。この解釈はどこにも出ていない評者の見解である。ただし、この方向で考えることになったのは〈古典の改め〉サイトの指摘のおかげである。同サイトの啓発に感謝申上げる。
(試訳)嘆き悩み宙にさ迷うわが魂を繋ぎ止めよ、(源氏の)妻の体に
つまり、御息所の魂はここを離れたくないのである。加持祈祷をゆるめてここに苦なく居させてくれと。
本歌は以上の意味で、魂に関する歌であり、魂の緒(魂が身から離れないようにつなぎ止めておく緒)をまだこの葵の体に結びつけておけと、六条御息所が葵に命じている歌であると解することができる。
源氏物語には同種の意味の「たまのを」の用例がある(ぬきもあへずもろき涙のたまのをに長き契りをいかがむすばん[総角])。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?