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[英詩]Seamus Heaney, 'The Loose Box'

アイルランドの詩人シェーマス・ヒーニの詩「馬房」 'The Loose Box' について長年かんがえてきた。収録の詩集 'Electric Light' (2001) を何度も読み返したけれど、この詩は実感が薄かった。けれども、飛渡さゆりさんノート [もう存在しません]で馬房の写真を見て初めて実感がわいた。つぎの写真だ。

キャプションに〈馬房から空をみたら、オレンジ色の満月。 馬になった気分でみる月もいいもんだな…って(^_^)〉とある。馬房からみた風景という発想はなかったので、この写真で少し馬房のなかの感じが分かった。なにより、馬房の外から光が差込むという視点が大きなヒントになった。ありがたい。また、同ノートには次の写真もあった。

キャプションに〈日暮れも早くなって、今日もあっという間だったな…っておもう瞬間。夕焼けを楽しむ時間すら短くて。〉と飛渡さんはお書きになっている。ノートの日付は2015年10月27日。北海道の秋の夕暮れ。この写真の下の牧場に草を食む馬たちが見える。馬は広い空間で夕焼けを直に全身で感じている。そして夜になれば馬房から見える月。馬の立場になって考えると光の感じ方が変わってくるのを感じる。本当に美しい写真だ。

ヒーニの 'The Loose Box' はまずタイトルがピンと来ない。「放し飼いうまや」は馬をつながずに自由にしておく。そういう自由な空間のある馬房のこと。その「自由」の部分が 'loose' の意味らしい。「解き放たれた」ということだ。その意味を頭のなかでころがしていると、自分の部屋が馬房のように思えてきた。

詩全体はヒーニの朗読でも4分半かかる長いもの。冒頭第1連の3行がまったく歯が立たない。

Back at the dark end, slats angled tautly down
From a breast-high beam to the foot of the stable wall––
Silked and seasoned timber of the hayrack.

詩はまずリズムをつかむのが何より肝心。リズムがとれると意味が分からなくてもひとまず安心する。どうやら無韻詩(blank verse)で書かれているようだ。弱強五歩格で行末の脚韻なしの詩形。このままシェークスピアの詩劇(blank verse で書かれている)にもすぽっとはまりそうだ。時空を超越している。

意味を考えるより前に、豊穣な音の交響に頭がくらくらしてくる。何といってもアイルランドの詩は母音韻なので、1行目の back - angled の /æ/ にしびれる。ここで「奥」と「角度をつける」が響き合うことの意味はあとで分かることになる。また、2行目と3行目の頭韻も印象に残る(breast-high - beam, silked - seasoned)。この「胸の高さの梁」と「絹の光沢をした、よく乾燥させた(木材)」が響くことの意味もあとで分かる。3行目は silked - timber の母音韻が、絹のような、よく乾燥させた木材の美しさをよく伝える。'silked' の語が頭韻と母音韻の両方で活躍することで、いかにこの木が美しいかが鮮烈に印象に刻まれる。 

リズムをとらえたら、そのリズムで、音を意識しつつ繰返し読む。すると、おぼろげながら意味が浮かび上がってくる。どうやら馬房の内部、薄暗い奥のほうの木材に焦点が合わせられている。動詞はない。名詞のみから成立つ。中心となる名詞は1行目の 'slats'(細長い薄板)だ。ほかのすべてはこの 'slats' をさまざまに修飾している。つまり、突き詰めていえば、このセンテンスは 'Slats.' 一語から成る文だ。何という極端に削ぎ落とされた現代詩!

'slats angled down' は日本では誤解されている(斜めに張った細長い薄板、のような意味にとられている)。

これはブラインドの角度を思い浮かべると分かる。外の光を上から部屋に差し込ませたいときがこの角度だ。

つまり、細板(slat)の外部側のエッジが内部側のエッジより高くなるような角度。'angled up' の場合は逆だ(エッジが外の地面に向かって下がる)。

'slats angled down' は、室内でブラインドの角度を調整しているとき、手前側を下げること。室外の上の方からの光が室内の奥の床の方へ届く角度だ。

つまり、この状態で外光が馬房内に届いており、その結果、馬屋の壁の下部の板が照らされ、3行目のようなつややかな木目の描写になっているのだ。

だから、'Back at the dark end' というのは、奥の方が暗いことを一応はいうのだが、その下部の方は、スラットの角度のおかげで光が当たっているのだ。詩行では〈光が当たっている〉などとは一言もいっていないから、この意味にたどり着くのは大変だ。最初から意味をとろうとしゃかりきになると、きっと分からないだろう。

第1連のだいたいの意味をとると、「馬房の暗い奥で、スラットの手前をぴんと下げ、胸の高さの梁から馬屋の壁の下部へ——まぐさ台の絹の光沢の、よく乾燥させた木」のような意味になる。「下部へ」のあとに頭の中で「光が届く」を補うとよく分かる。光がないと、そのような木目が分かるはずがない。

この詩はこのあと、政治家マイクル・コリンズ(Michael Collins, 1890-1922)の話になる。彼が屋根裏の藁敷のところから落とし樋を落下したが、傷ひとつなく立ち上がった逸話が紹介される。故郷へ戻った彼が反対派に暗殺され、正装安置されたニュース映画しか見なければ、彼の幼少期のこんな話は分からないに違いないと結ばれる(彼は冥界に落ちても、また幼少期のように、立ち上がるだろうという含意)。最後の2行。

           Or so it can be stated

In the must and drift of talk about the loose box.

「あるいは、臭い漂う馬房話のなかではこんなふうに言える」とはユーモラスな終わり方だ。ヒーニの頭の中では、馬房の飼い葉の匂いが、歴史上の人物の飼い葉をめぐるエピソードに結びつき、アイルランド史をその詩的アングルから捉えることになったのだろう。

最後になりましたが、馬房および牧場の写真をこころよく使わせてくださった飛渡さゆりさんに深甚なるお礼を申上げます。おかげさまで年来の疑問がすこし解けました。

#英詩 #詩 #馬房 #シェーマスヒーニ #アイルランド #マイクルコリンズ


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