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【米大統領列伝】第四回 ジェームズ・マディソン大統領(中編)

はじめに

 告知通り、中編では一期目(1809-1812)でトマス・ジェファーソンが何をした大統領か追っていきたいと思います。しかし、一期目はほとんど何も重要なことは起きてらず、二期目の前座のような状態です…。

前回は以下により

閣僚編成

 毎回恒例の閣僚編成は以下の通りです。

副大統領 ジョージ・クリントン (継続–1812)4月に死去で副大統領不在
国務長官 ロバート・スミス (1809–1811)
     ジェームズ・モンロー (1811–1812)
財務長官 アルバート・ギャラティン (継続–1812)
陸軍長官 ウィリアム・ユースティス (1809–1812)
     ジョン・アームストロング (1812)
司法長官 シーザー・オーガスタス・ロドニー (継続–1811)
     ウィリアム・ピンクニー (1811–1812)
郵政長官 ギデオン・グレンジャー (継続–1812)
海軍長官 ポール・ハミルトン (1809–1812)

内政政策

 内政で大きな問題として、1811年に第1合衆国銀行の公認期間が20年目(1791年に設立)を迎えたことに起因し、国立銀行の創設に反対していたトマス・ジェファーソン的な考えを持っていたジェームズ・マディソンが時の権力者という状況でした。国内における反英感情も再燃していた中で、1812年に戦争が起きる可能性に備えるべく、財務長官のアルバート・ギャラティンは銀行は設立すべきとの考えをマディソン大統領に進言しますが、それでも不要という意見を貫いてました。

結束の弱い内閣としてスタート

 内閣人事に関しても、ライバル関係にあったジェームズ・モンロー(後の5代目米大統領)とジョージ・クリントン副大統領との対立が目立ちました。選挙が交易の停止の後で連邦党の勢いも一定の回復が見られ、議会もマディソン大統領に対し、厳しく、議会での対立を避けることに繋がり、妥協で選ばざるをえなかった国務長官のロバート・スミスに関しても、あまりにも非協力的だったので、マディソンが事実上の国務長官の仕事をこなしてる状態になり、ジェームズ・モンローに変えるまでは、国務長官で苦しみました。内閣で不信感を懐いていたマディソンは財務長官のアルバート・ギャラティンを除いて、基本的に個別で対応する等し、内閣会議をあまり開くことはしませんでした。

軍事・外交

 外交では、通商禁止法の余波も残っていた為、英国との関係が冷え込んだ状態でのスタートになりました。しかし、両者ともに妥協をみせることには至らず、過熱していきました。英国は米国の商船を使わエて、水府を強制徴募を続けてました。一方、米国では英領カナダへの侵攻をほのめかすことで交渉材料になると思い込んでいたが、多くの同盟国の手助けあっての米独立戦争で陳勝したことを忘れている者が増え始めていた時期を物語る材料です。依然として、英国は当時の世界の超大国には変わりはなく、米国の本土進攻はともかく、海岸線なら火の海にすることは容易でした。当時の米国はまだ多くの国民は東海岸で暮らしていた為、これは死活問題です。しかし、過去の成功体験の成功理由を分析することに盲目になり始めていたことで、英国と戦えるという考えが芽生えてました。マディソンは国立銀行の役割をする銀行を断る一方、1812年に英国と戦争できるように議会を説得していました。しかし、海軍はおろか、陸軍や州兵、砦すら作るお金も時間もなく、戦争したら、負けしかみえない準備の体たらくが目立ちました。1812年の米英戦争は二期目に起きたことなので、後編でこの準備不足が招いた混乱が明らかになります。

 英国がここまで妨害する根拠について触れると、英仏はまだ戦争中で、フランスに対する交易活動が戦局に不利な影響を与えるからです。ナポレオン戦争は1815年まで続き、米国はフランス側を支援していたので、敵対する同盟関係に対する当然の処置をとったに過ぎません。ヨーロッパのみならず、大陸を超えた場所でもナポレオン戦争は様々な事件を引き起こし、米国の場合は米英戦争、日本の場合はフェートン号事件等が起きました。

 原住民との外交では、農家として受け入れる姿勢を示し、文明的な対応を求めた。この件に関して、ケースバイケースで上手く事例といかない事例がありました。

移民政策・奴隷政策

 大きな変更点は見られなかった。

教育

 大きな変更点は見られなかった。

経済

 第1合衆国銀行の更新時期でマディソンは阻止しようとし、国立銀行抜きでの米国債務立て直しをしようとしてました。交易の立て直しをしなければ、ならない中での英国からの嫌がらせ行為が止まらず、対応が困難な状況です。関税による財源もなく、米国経済は厳しい状態でしたが、農業は顕著でした。

1812年の大統領選挙

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1812年選挙の結果

 一期目の任期で特に何もしなかったマディソンですが、選挙結果は前回よりも選挙人獲得数が減りながらも、選挙で勝ちました。民主共和党のジェームズ・マディソンの選挙人数は128人で、対抗馬の連邦党のデウィット・クリントンは89人で前回よりも接戦に近い状況になりました。

ジェームズ・マディソン政権時の小話

・合衆国銀行の更新拒絶で、各州の銀行で独自紙幣が発行されるカオス状態に陥りました。

あとがき

 1812年以降に主要なマディソン政権の動きがあるので、一期目はあまり取り上げる内容が多くない特徴を持ってました。後編では書くことが多くなりそうです。

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