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目に見える世界と見えない世界①

子どもの頃、スプーン曲げがブームになったことがあった。
私は兄と一緒になってテレビを見ながら懸命にスプーンをこすった。それを見ていた父は「馬鹿らしい。こんなの大嘘つきに決まってる」と歯牙にも掛けない様子だった。

同じ頃、透視をして行方不明者を捜すとか、守護霊と話をするだとか、これが宇宙人の写真だとか、そうしたものがテレビ番組には溢れていた。でも気づけばそのような番組は熱が冷めたように跡形もなく姿を消してしまった。

あれは一体何だったのだろうと子ども心に不思議で印象的な出来事だった。
スプーン曲げを馬鹿にしていた父は、目に見えないこと、科学で証明できないことは信用できない。信じない。という人だった。おそらくいい歳をした大人の部類にはいる人たちは、父と同じような考えの持ち主なのだろう。

けれどもその一方で、地方都市の田舎町で生まれ育った父は、子どもの頃お墓で人魂をよく見たことがあるとか、親戚のおばあさんが亡くなった時に、おばあさんの魂が自分の家の玄関扉を叩いて教えに来てくれた。なんてことを真顔で言ってみせたりした。そっちの話の方が断然怖いんですけどね。
 
スプーン曲げが流行った時代、変わりゆく社会の中でどう生きていけばいいのか不安を抱える若者たちがいた。親世代は戦争を体験し、全てを失いながらも必死に命を守り生活を立て直し、社会を発展させることに人生を捧げて生きていた。自分たちのように生活に苦労しないためにと、子どもたちには高学歴を身につけさせ社会へと送り出した。

しかし、そうやって育てられた子ども世代は、少しでも多くの収入を得て安定した生活を手に入れることが人生の目的なのかと、経済的に豊かになっても、それと幸せがイコールで結びつくことはそう多くはなかった。
幸せを実感できないまま、自分たちは何のために生きるのか、親のように仕事仕事に生きるのが幸せなのかと無力感を感じはじめ、漠然とした将来への不安を抱え、これでいいのか、どうすればいいのか、何かにすがりたい、正しい道へ導いてくれるものに出会いたいと願っていた。

そんな心の隙を埋めるかのように、親の代に失われてしまった日本人の信仰心に代って、新たなものが興こされた。新興宗教というものがいくつも生まれ若者たちの心を惹きつけていったこともまた事実だ。
 
科学で証明できることこそ正しいと言いながら、目に見えない物を漠然と信じていたり、科学に頼らずに心の救いを求めたり。私たちは、目に見える現実の世界と目には見えない心を支える世界がシンクロする世界に生きている。

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