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問題は行為ではなく、意識そのもの。スピに惑わされず、自己犠牲という概念を間違えない


強い人間は最初から存在していない

強さとは何か

私たちは、社会のさまざまな矛盾に飲み込まれ、いつの間にか自分の内側に地獄を作って生きています。

『ああしたかったけど、できなかった』
『こうしたかったけど、できなかった』

など、つい人のせいにしたり環境のせいにしたりして自分を惨めにさせて、いつの間にか自分を弱者にさせてしまいます。


自分の本質は自分主体ではない

主体とわがままを混同するな

昨今、スピリチュアルが流行っていますがこの社会の矛盾に飲み込まれた多くの女性の価値観が【自己犠牲】による『自尊心欠乏』によって、《ワクワクすること》というキーワードで『自分を解放させる』ことによって、お金を引き寄せる、我がままに生きていい、と自己解放に向かわせることが散見されています。


実際に、これらには一見矛盾したものがないように感じますが、【自分を抑え込んできた】という自分自身は『結果的に自分の為に起こしてきた自分主体の勝手な気持ち』であって、周りのことを考えて起こした行動ではありません。

ですから、自己犠牲してきた、我慢してきた、というのは間違いで


【勝手に人の気持ちを推察して勝手に人の想いを汲んできた】


に他なりません。ですから、言葉悪く言えば「自己中心的」な考えでしか人を見れていなかっただけです。誰のことも考えてこなかった。それだけです。


ですから、嫌われないように、嫌われないように、とがんばってきた、苦しかったというのも

『相手が何を大事にしているか』すら見ず、表面ばかりを取り繕い、その結果、誰にも心が開けずに自分自身の殻に閉じこもって地獄を作り出しているだけだった


たったそれだけです。


これが理解できないと《こうさせたのは周りが悪い》というネガティブな感情だけがまだ残っています。これが不幸の元で、耳が痛くてもこれを理解しなければ自分というものがわからないんです。


なぜなら、自分すら愛せていなかった、ということを自覚する必要があるからです。。だからこそ、自己犠牲の被害者である、という人がこの世の中に多くいること、それすなわち【自己犠牲の加害者】でもあるのです。

結局、誰のことも愛せていなかったと自覚する必要が早い段階で必要なのではないか、と最近は昔を思い大変よく感じてます。

自分自身を不幸に貶めた加害者は、自分自身です。


スピリチュアルの落とし穴

本質はお金でも見せかけのしあわせでもない

昨今、引き寄せの法則もしかり、お金至上主義によって贅沢な生活をすることがしあわせだというスピリチュアルが蔓延していますが、私たちの幸せというものの本質は【物質で満たされること】ではありません。


自分自身の本質を知って、その本質との矛盾を限りなく減らしていく道
それこそ本質のしあわせ

私自身も過去つらいことがあり過ぎてスピリチュアルに傾倒し、様々なことにも手を出し、霊能者とも幾度交流がありましたが、その全てにおいてしあわせに感じたことはありませんでした。


なぜならば、私自身が自分の本性を聞こうともせず、理解もしていなかったからです。



人は、絶望した時にこそ自分自身の身勝手さを知る



人間全て平等に身勝手

自分が自己中心的であることを知る

私たち人間は、等しく身勝手です。みんながそれぞれ自分のことしか考えて生きていないのです。ですから、『自分だけが損をしている』と、必ずだれでも考えてしまう。


この世の中で自分がどれほどしあわせに感じている人がいるかと言えば、100人中1人いるかいないかくらいしかいないのではないでしょうか。それほど、みんなが悩みを抱えて【自分だけが不幸だ】と、自分だけの幸せのために必死に生きています。


ですから、【ありのままの自分を知る】ということが必要なんですね。そのありのまま生きる、ということこそが本当のわたしであり、あなた自身である、ということに他なりません。


あなたもわたしも自己中心的

許せる人になる

許すことでしか自分を愛せない

私たちはまず、自分勝手だということを知ることが必要です。それは非常に耳が痛い話ですが、人の為に考えて我慢して生きてきたわけではなく、自分だけのため(自分を守るため)に生きてきた、と正直に認めなくてはいけません。


清廉潔白ではなく、普通に生きていたら自分のためだけにしか生きていない。


『自分の為に何ができるか』しか、本質は考えていない

ですが、これでいいんです。

自分の為だけに、人にいいことをしていく

自分勝手に人を愛せよ

本質が自分のことしか考えていないことを理解しておけば、自分がいいことをしたらいいことが返ってくる、という単純でシンプルな理屈が非常にわかりやすくなります

なぜなら、自分も勝手なのに他人も勝手に生きていいことを認めなければいけないからです。

自分が勝手に自分のためにだけ生きてきて不幸だったならば、自分は人のことを少し考えて勝手さを許すということはしあわせになることだと理屈が付きます。


ですから、今まで自己犠牲して苦しんでいた人たちは見方を変えて『自分の為に自己犠牲する』という修行を始めるしかありません。

修行というのは、【自分を愛するためにする】修業です。ですから、自分だけの為に人に対してしてきたいい善行為を、今度は自分の為に自分が気持ちよく自分を赦すために同じように、今までと同じく誰かの為に【意識を変えて】行えばいいだけなんですね。


なぜ、これが必要かと言うと『自分の身の回りに自分がしてきた無駄だと思った善行為が、善行為そのものとして自分に返ってくる』ことをリアルに体験できるようになるからです。


人の為に何かをしてきたことは、自分の心の内側に黒いものがあったとしても、それが人にどのような形で与えられ、どのような形で人を救ってきたかは当事者ではわかりにくいのです


苦しみながらも他者に行ってきた自己犠牲も、
自分が自分に心を開かなければ意味が理解ができないのがこの世界

自分自らがこの世界に心を開き、色んな人の心を知り、色んな人たちの大事なものを大切にしているものを同じように大切に思い、そうして他者と寄り添っていくと、自分の周りにある、ものすごく大切なものが見つかって、身近なところにある、自分だけのしあわせがもうすでにあった、と、気づくことができるようになる。


人生とは、非常にシンプルにできていたのでした。

ですから、今まで自分が苦労してきた我慢や苦しみが決して無駄ではなく、むしろあなた自身にとっての大切な気づきのための布石であった、と、絶対にわかる時が来ます。


自分を赦し、他人を受け入れた時にはじめて自分の欲しかったしあわせが見えてきて、自分のしてきたことが無駄ではなかったと、絶対にわかるようになります。

弱さを強さに変えて、やさしい人間の本質に帰る


スピリチュアルで間違った道に行ってはいけません


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